『杳子』を一読した時、上記の杳子の科白にどうしようもなく共感し、
著者である、内向の世代と称される古井由吉に、心の中で、
「内向の世代最高!内向の世代ありがとう!言葉にできない苦しみを表現してくれてありがとう!純文学ひゃっほい!」
と叫んでいた。(一部脚色、叫んではいない。)
その後、平常心を取り戻し、2回目3回目と読み重ねていくうちに、また違った角度からより深くこの作品を理解することが出来た(気がした)ので筆を取った。
それはもしかすると私自身が杳子の姉の側の人間になったことを意味するのかもしれない。成熟した女の側に。
"病気"と"健康"
古井由吉『杳子』は、"二十歳をすこし越えたばかりの"彼(S君)と同じ歳の杳子が出会い共に過ごした季節について描かれた作品だ。
病名は明らかにされていないが杳子は病気である、と描かれている。
Sと店で待合わせた際以前と同じ席に座る事に偏執的に拘ったり、慣れた道以外の道を一人で歩くことが困難だったり、外食の際ナイフとフォークで食事する事が困難である姿が描かれている。
彼はその様子をしばしば"失調"と表現している。
その病気が何であるのかは明確に描かれていないが、その逆である健康が何であるかについては杳子の科白でこう表現されている。
"少女"と"成熟した女"
先程杳子の科白に出てきた"あの人"とは杳子と九つ歳が離れた30過ぎの杳子の姉である。
この姉もかつては病気だったという。
この物語において"成熟した女"という存在として描かれている。
杳子はこの姉を嫌悪している。
姉を嫌悪しているというより、自身の中に同居している"少女"と"成熟した女"をはっきり自覚した上で、自覚しているからこそ、健康になって病気のことを忘れて"成熟した女"になってしまった姉を嫌悪しているのだ。
"境い目"においての"孤独"と"恍惚"
ここまで書いてきたことを見てはっきり言えるのは、杳子は自身の病気についてきちんと自覚したうえで、後退もしたくなければ前進もしたくない。少女のままでいたくもなければ成熟した女になりたくもない。その境界である今が一番美しいと気づいているという事だ。
ラストにいたっては、赤みをました秋の夕陽が沈む自然らしさと怪奇さの境い目に立ち静まり返る中細く澄んだ声で
と、つぶやくのだ。
これから病院に行くことで恐らく彼女の病気は快方に向かうのだろう。そして彼女自身それを自覚している。自身の美しさの斜陽と秋の斜陽、それぞれの美しさのピークが重なり息を飲んだ描写だ。
そしてまた、彼(S君)も杳子の孤独と恍惚に気付き、魅せられ、惹かれた人間だ。
"杳子"と"彼(S君)"
これまで杳子と彼女が内包する病気について書いてきたが、ここでは彼(S君)について、また、彼(S君)と杳子の関係について書いていきたい。
まず、彼(S君)についてだが、彼(S君)自身も健康とは言い難い。
そう、そんな彼(S君)だからこそ、杳子の、杳子の病気の共犯者になり得たのだ。
杳子を理解し、二人はより深いところで共鳴し合えたのだ。
彼が杳子と同じ歳というところも大きいのかもしれない。
子供から大人への過渡期。
二人の会話についても、きちんと目線は同じで杳子の感じ方を理解した上で返答をしているように感じる。
二人の会話でいっとう好きなシーンがある。
今のところ私史上イチの、プロポーズで言われたい言葉である。
二人は精神のところで触れ合っている。
だがしかし、全く同じ人間ではないし、個々の入れ物(軀)があり、境界があり、完全に一致することもなければ、浸ることも溶け合うこともない。
出来ない。
"軀"と"輪郭"
この作品を開いてまず驚くのは夥しい数の"軀"という文字だ。
これは二人ともに軀を切り離して考え客観視している、入れ物としての感覚を感じる。
さらに特筆すべきは"軀"という漢字だ。
【からだ】を表す漢字は全部で5種あるそうだ。
【体】【軀】【軆】【躰】【體】
『杳子』にて頻繁に使われているのは【軀】だ。
これは、【むくろ=しかばね】を意味する。
軀と心の釣合いが取れず上手く歩くことが、上手く生きることが出来ない。
"谷底"と"海辺"
二人は深い谷底で出会った。
二人はお互いに途方に暮れると最初に出会ったこの時のことを思い返し、きれぎれな言葉で満たしあう。
谷底とはどんな場所か、二人の出会いとは何だったか。
なぜ二人は繰返し谷底の話をするのか。
杳子は、その網の目にくりこまれてしまい身動きがとれなくなっていた。
その中で杳子は、
と思ったとある。
そこに彼(S君)はやって来た。
重要なのは"釣合い"というキーワードだ。
ある時、池のほとりで杳子は河原石を積んで塔をこしらえていた。
ここでも"釣合い"について描かれている。
杳子の石の積み方は非常に無造作で危うい釣合いを取っていた。
大小の順も、形の釣合いもかまわずに積まれていた。
それを見た彼(S君)は
その後、
と言うのだ。
生きることは釣合いを取ることだ。
自分自身の体と精神の釣合い、
周りの人間との関わりにおいての釣合い、
釣合いが取れなければ待っているのは途方もない孤独だ。
そして彼らを結びつけたのはこの孤独だ。
彼らは釣合いが取れないという点で結びつき釣合いを取っている。
海辺に二人が向かうシーンがある。
そこで杳子は岩の上に立っている。
谷底とは対照的に描かれており、光を感じる生命的なシーンである。
この作品において、1人立って歩くということは釣合いを取るということだ。
この後物語は終盤へ向かう。
この作品を読んで嫌悪する人も中にはいるらしい。
メンヘラな男女のよくわからない物語だと捉える人もいるのかもしれない。
もしかしたら生きていく上では、そちら側の方が良いのかもしれない。
だが、きっと杳子は言うだろう。
今この作品を平常な心で、こんな時期もあったと、振り返りながら読めている自分の成長に安堵した。
この作品に出会ったのは二十代前半、二人の、二人だけの孤独に泣きたくなるくらい共感した。
二人はこの後離れる予感しかないけれど、それでも彼らが過ごした季節はかけがえのないものであり
生涯忘れがたい輝きの季節だ。
他人同士でも人はここまでは理解し合える。
不可能を嘆くより可能性に手を叩きたい。