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体はこころの鏡

わりと体を酷使する系統の仕事をしているせいか、ここ数年は、「今の自分の状態」というものが体つきの変化として表れるようになった。

体重の増減はそんなにないんだけれど、見た目とか、自分が「筋肉を使ったときの体感」が違い、体が動かしやすい・動かない、というのが如実に分かるのだ。

春先、作業はじめは2週間くらい辛い。体が作業に慣れていない上に、冬の間に怠けたせいで筋肉が衰えているから。全身の筋肉がぎしぎし痛み、鉛のように重い。

晩春から秋にかけての農繁期は、体が疲れすぎて眠れないことも多々ある時期なので、おのずと体がしまって筋肉質になる。

筋肉に力を入れると、『あ~、今ここの筋肉を使ってるんだ』というのをすごく感じるようになる(なんかちょっと気持ち悪い書き方ですね・・・。でも本当にこんな感じなんです)。

「仕事に必要な筋肉」がつくので、ものすごく筋肥大した見た目というよりは、細マッチョみたいな印象とでも言おうか。私の場合は下半身はしまって細く見え、上半身は上腕や背中の筋肉が目立つようになってムキムキになる。

私はずっと自分の体の感覚に疎かったけれど、最近ようやく上記のような「体との対話」ができるようになってきた。

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季節や仕事内容によって体つきが変化するということは、私自身が無意識的に「体を作り変えている・適応させている」ということなんだと思う。

肉体労働は、体が商売道具になるので、体が動かないことはお金を稼げなくなることに直結する。作業内容が過酷になればなるほど、体はいろいろな意味で(肉体的・社会的な)死に日々直面していることになるからだ。

食事をせず、エネルギーが入ってこないまま重労働をし続けただけでも、最悪、死に至る可能性があるわけで、死というのは案外すぐそばに存在するものだと私は思っている。

生物として死の危険性をなるべく減らすために、体(と脳)は筋肉という鎧をつけて肉体を護りつつ強化し、かつ効率的な肉体の使い方を覚えさせてエネルギーの浪費を防いでくれている。

私は常に生と死を意識しながら暮らしているが、それはこれまでの私の人生で何度も死を身近に感じたからでもある。

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今でこそ、心身ともに健康(と言っていいのかは分からないけれど)で、毎日仕事をしたり家事をやったりできているが、どういうわけか入院に至るくらいの病気をすることが多かった。医療の発達していなかった時代に生まれていたら、子どもの頃に死んでいただろうと思う。

また、神経質で過敏な気質のせいか、精神的に打たれ弱く、ものすごく厭世的でネガティブだった。さらに、19歳の時に「痩せ」という形で過干渉な母に初めて反抗したことをきっかけに、精神的な問題に付随する「肉体の死の危険」に何度か瀕することになった。

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(ここから後の話は、痩せ賛美でも病気や自死を美化・推奨しているわけでもなく、私個人の経験と過去の思いを書いたものです。具体的な数字も出てきますが、それがいいとか悪いとか、そうしなければならないとか、そういう気持ちはありません。ですが、気分を害された方がいらしたら申し訳ありません。)

痩せることでしか自分の価値を見いだせなかった頃、身長160cmで34kgほどまで体重が落ちた。そのくらいまで痩せると、膝の骨同士が擦れて痛いし、皮膚は最大限まで乾燥して血の気が全くなくなる。

過活動だったから、寝る時間も含めて全て1分刻みでスケジュールを作り、勉強やアルバイト、トレーニングをしていた。そのスケジュールが守れないとパニックを起こし、さらに体を痛めつけた。

カロリーも全て計算し、基礎代謝に満たない量しか食べていないから、常に動悸がしていて、体がだるく痺れている状態。でも、「本能に負けることは自分に負けることだ」とかなんとか考えて、本能を屈服させるべく間違った努力を3年くらい続けた。

その後、一旦拒食状態は改善したが、希死念慮はずっと改善しないまま。30歳の時に仕事のノルマがきつくて再度うつ状態になった。

頭の中は漠然とした不安感で満たされ、寝られず、食べることもできなくなった。「このままだと死ぬよ」と医師に言われ、死に取り憑かれた私は閉鎖病棟に強制入院になった。

「生きたくても生きられない人がいるのに私はバカだ、生きていたら迷惑だから死んだほうがいい」と泣きながら、でも周囲には「死ぬのだけはダメだ」と言われ続け、結局、19歳から約15年間、痩せと生と死の狭間でもがき苦しんだ。

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私は、ずっと生きることに向き合うのが怖かった。生に向き合うのを拒否している間、体もその思いに呼応して、生きながら死んでいた。体は私の思いを、よくも悪くも全て洗いざらい白日のもとにさらけ出し、私の代わりに私の思いを表現し続けた。

体が限界を迎える直前まで何度も行って、それでも帰ってきてしまった私が思うのは、「体はアタマの思い通りにはならないけれど、私自身のこころを映し出す鏡である」ということ。

自分が死にたかった時は体も「死んでいる」ような状態だったが、体を動かすのがうれしい、楽しいと思えるようになった今、体は私の思いに応えてがんばって動いてくれている。私の「本当はこうしたい」を命がけで体現してくれているのだ。

病気になったり、怪我をしたり、そういうのは人間がどうこうできる領域ではない。だから、今病気や怪我で苦しんでいる方も、個性的な気質を持っている方も、自分が悪いとか迷惑をかけているとか、そういうふうに思わなくていいと思う。

だけど、そういう状態に置かれたときに、「じゃあ私は本当はどうしたいのか?」「どうなりたいのか?」というのを考えてみることは必要かもしれない。そこで出てきた答えは、あなたにとって『本当は求めていた隠された答え』であることが多い気がするから。そういう答えを分からせるために、体が病気や怪我という形で知らせてくれたとも言えるから。

その答えがすべて叶うとは限らないけれど、その時の自分に合う形で、体は「こころのホンネ」を教えてくれるのだと思う。私の場合は「こころのホンネ」が分かったあとに、かなり力技で最初に「環境」を変えた。その結果、体が変わり、最後に心が変わった。

あんなに死にたかった自分は、今はほとんど出てこない。きっと、心のどこかにはまだ存在するんだろうけれど。

体を使って生きることは、生と死と近いところで生きることでもある。私は、体を動かすたびに「生きている」のを感じる。大げさかもしれないが、人生で今が一番、「本気で生きている」んだって思うのだ。

今、私の体は目が回るような忙しさで悲鳴を上げつつも、ちゃんと動いてくれている。今日の記事は、過去の病んでいた私への手紙でもあり、今頑張っている自分へのエールでもある。支えてくれた周囲の人達と、私の体への感謝を込めて。

大学4年生頃、厳密には一番痩せていた時ではないけれど、その状態に近い時の写真です。35~36kgくらいかな。おばあちゃんと一緒に。

あの頃の自分、めちゃくちゃダメダメだったけど、生き延びてくれてありがとう。最後まで、一緒にがんばろうね。

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