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戒を説く

4月3日土曜日 今日は本休寺では花まつりを行います。といってもコロナ禍ですから、集まってのイベントは出来ません。本堂前に花見堂を置いてお参りを待つ形です。

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2年前までは、リトミック教室の宣伝も兼ねてイベントを行なっていましたが…

さて、お釈迦さまの遺徳に感謝し、寺院が誕生を祝うイベントである花まつりですが…個人でなく、寺院として行うのは、組織を運営したからでもあります。

運営とかいうとなんだかイメージがわかないと思うかもしれませんが、戒律という。倫理とルールを規定したのはお釈迦さまです。

日本の仏教は戒律をあまり強く主張しません。しかし、戒は良き習慣という面もありますから、本休寺と妙光寺では、テンプルモーニングの折りに五戒をメインに布薩(反省会)を行なっています。

そんなこんなで気になって読んでいたのは、こちら

曹洞宗の受戒会、道元禅師の『教授戒文』の説明です。奈良先生は印度学仏教学の碩学です。奈良先生は戒律を「躾」と位置づけます。習慣化した行動パターンと言い換えています。

特に戒は反省がともなうものであり「及ばずながら」も生きていくものと述べています。

本書で面白いと思うのは、祈りと現世利益の文章です。

「祈り」とは神・仏のような「聖なるもの」と私たち人間の内面的交流のことです。(135頁)
端的に言うなら、現世利益は「仏に祈る」姿勢です。仏が向こうにいて、私はこちらにいて欲望を満足させてくださいとリクエストするのが現世利益です。三帰礼文とは自分と仏とが一つになって「仏と祈る」ないし「仏を祈る」ものだという違いがあるのです。仏教のあるべき祈りなのです。(135頁)
仏さまに救ってくれと頼んではいけない。「仏さま、私と一緒に苦労してください」と拝めと言われた。(138頁)
「観音さんに手を合わせて拝むということは、愚痴を言うことでもなければ、願い事をすることでもない。自分を拝むことなんですよね」という言葉がなんの気負いもなく出てきました。(139頁)
現世利益はたしかに「仏教的でない」面があることは事実です。迷信と言いようがない儀礼や慣行もありますし、それは斥けられなければなりません。しかし、だからと言って一切やってはならぬ、必要ない、などと決めつけるのは言い過ぎだと私は思っています。それは悟りの立場からの発言です。現実はその通りには機能していません。もうすこし「困ったときの神頼み」をせざるを得ない人間の弱さを汲み取る必要があるのではないでしょうか。すべてをきりすてるのではなく、「気休め」としての機能は認めつつ、次第に信仰に裏打ちされた祈りに昇華させていくべきものではないでしょうか。   純粋培養された悟りの生き方のみ説き、それ以外のものをすべて「仏教にあらず」と説くのは、私には仏教原理主義に見えるのです。(141頁)

上記の表現は、「祈り」と「現世利益」、悟りの立場がキーワードです。悟りに至らない凡夫としては、現世利益をもとめてしまう。一方悟りの世界では、欲望をコントロールすることができていますから求めない。現世利益を現世利益のままにしない、今ある現実と向かい合い、己が苦しむことを覚悟する。その折、一人で苦しんでいるのでなくともに仏が苦しんでくれていると考え、愚痴など言わずに丁寧に物事に向き合うようにするということなのだと見えてきます。

言うは易く行うは難しですが・・・

ちなみに、佐々木閑先生は『日々是修行』の中で

「この世には、超越的な力を持つ絶対者など存在しない。すべては、原因と結果の間に成り立つ法則性で動いている。私たち自身の肉体も心も、その法則性に従って存在しているのだ。だから、生きる苦しみを消し去るためには、外の絶対者にお願いしても意味がない。世の法則性を正しく知ったうえで、それを利用したかたちで自分の心を鍛錬していく、それが苦しみをなくす唯一の道だ」という、これが釈迦の答えなのである。(41頁)

と述べています。奈良先生の仏教原理主義者でるあことを述べたと言えます。その上で、現代の科学的見地を理解しそれが正しいと考えた場合は、たとえブッダの教えであっても、自分は採用しないという立場をとられています。なかなか言えない覚悟だなといつも感じています。

さて、本書は先にも示したように、道元禅師の『教授戒文』の説明で当然、十重禁戒にも触れていて、戒の根本に「~するな」でなく「~しない」という考えが基本にあると指摘しています。それは仏の立場にたって、あるべき理想を示していると述べています。

修証一等とは修行と悟りが等しいという考えですから、それに基づいているとも言えそうです。あるべき姿を求め生きていく。学ぶべきこと多き一冊です。



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