逸葉 itsuyo

学生。

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最近の記事

喫茶店一景

散歩の途中で喫茶店に寄った。注文したコーヒーを受け取って適当な席を選び、一口だけ啜って一息付いた。ほとんど満席で、パソコンを開いているスーツの人やら、勉強をしたりお喋りしたりしている中高生やら、新聞や本を読む白髪の人やらが目に入った。おもむろに芥川龍之介の文庫本を取り出し、読み始めようとすると、どうも目が滑ってしまって頭に入らない。入り口に近すぎて、店員同士の話し声に遮られるようであった。二口コーヒーを飲んで、奥の席へ移動することにした。二頁は読み進めたが、店内放送のラジオが

    • 『ボヴァリー夫人』の翻訳

      『ボヴァリー夫人』の第一部を読んだ。訳者の芳川泰久は解説で翻訳についての断りを長めに入れていて、それによれば、自由間接話法の訳出に工夫をしたという。 ちなみに、「死んでいる!なんとびっくり!」に当たる箇所は"Elle était morte ! Quel étonnement !"である。 芳川氏のフローベール読解にも、その説明にも不満はないが、訳出方法に関して、思うところがあるのである。 まずは以下の文章をみよう。『唾玉集』より、広津柳浪談話、「今後小説の文体」である。

      • なぜ勉強しなければならないかという問い

        子供というのは大人が考えているより理屈っぽくて、また大人が考えるより未熟であるというようなことをルソーが言っている。子供も理解し、識別し、判断する必要は当然あるため理屈を知っているが、人生経験、社会経験、要するに浮世の道理を、これも当然ながら知らない。大人は浮世の道理を弁えるとまで言わずとも、常識やら処世術やらによって生かされていて、そういう習い性となった見方考え方は眼鏡のように外すことはできない。その目で子供を見ると信じられないくらい未熟に見えるから、難しいことは分からない

        • 忘年望常

          『筑摩書房 なつかしの高校国語』は、以前買ってしばらく手元にあるものだが、今日ふと手に取った。読み差しで放っぽってある文庫本はいくらもあるのに。昨日、前田愛の本で『羅生門』のことが書いてあったから、『羅生門』の研究を覗いた。いい本だ、いつか本物の高校生相手にこれを使ってみたいと空想を奔らせながらぱらぱらとやっていると、いつの間にか『無常ということ』を読んでいた。一ニ年前に久し振りに読み返した記憶があるが、小林を知り始めた頃だったからいくぶん研究者的興味で読んだと思う。あの「悪

        喫茶店一景

          全集の効用

          小林秀雄は度々、全集を読むことを勧めている(「作家志願者への助言」「読書の工夫」「読書について」等)。私たちは当たり前に日本語を読んでいて、読むことの難しさに気がつくのは困難だ。よく読んで、小林ふうに言えば、ガアンとやられるまで読むか、真剣に、一字、一画まで気を張って真剣に書くかして、ようやく読むことの難しさが分かってくることが多い。全集を読むのは、読むことの難しさを知るのに良い。例えばある文章のちょっとした一節が、同時期の別の文章を念頭に置いて書かれたものだったりする。それ

          学ぶ人へ

          「ものが分かるようになるにつれて、如何にものを知らないか思い知らされる」というアインシュタインの言葉は、英語の教科書のコラムで見て、感心したものである。簡単な単語ばかりだから覚えやすかったのもあるだろう。これをまるごとひっくり返すと、自分が如何にものを知らないかを自覚していない人は、それだけ勉強不足だと言える。ただし、勉強不足な人がそれを自覚していないとは限らない。勉強満足ということはないわけで、アインシュタインだって、無知を自覚しながら勉強したに違いない。そこらの少年でも、

          田山花袋『インキ壺』、正宗白鳥『何処へ』雑感

          田山花袋という人も、『蒲団』のことばかり言われて思えば気の毒な人だ。『インキ壺』をぱらぱらと読んでそう思った。花袋のことは彼の文壇仲間と後世の評論家を通じて知っていたばかりで実際読むのは今度が初めてである。例えば正宗白鳥は人柄を褒めるばかりであまり作品のことは言わない、岩野泡鳴は花袋の主観を排斥するやり方を批判する、中村光夫等の後世の人は『蒲団』の影響を強調する、といった具合で、そういうものだけから考えられる花袋は、文芸を愛し、社会のこと他人のことにあまり関心を持たず、『蒲団

          田山花袋『インキ壺』、正宗白鳥『何処へ』雑感

          エンリーケ・ビラ=マタス『バートルビーと仲間たち』木村榮一訳

          書くべきか、書かざるべきか、と書いて私はそれを抹消する。汝自身を知れ、駄目駄目。始まりは常に難しい、そうこれだ、にっこりしてこれも抹消する。 エンリーケ・ビラ=マタスの『バートルビーと仲間たち』の感想文を私は文字通り書き始めていないし書き始めることもないということを分かって欲しい。本書の中に、書き始めるために一生を費やしてついに書くことがなかった作家のことが出ているが、それは決して愚かなことではない。だいたい、書かないことについて書かれた本ならざる本について書くだなんて、正気

          エンリーケ・ビラ=マタス『バートルビーと仲間たち』木村榮一訳

          日記

          フェルメールは、昔雑誌の特集で大きなカラー写真を見てから好きだ。窓と手紙を使って想像力を刺激する彼の作品は私の特に好むものである。今度の「窓辺で手紙を読む女」は上手な修復だった。かなり昔に上塗りされたものをよくもまああれほど綺麗に剥がせたものである。大勢の鑑賞者の感想は大概これと似たりよったりなのではないか。とにかくあれは修復技術のアピールであった。修復技術を解説した動画を見せられてから絵画を見始めるのだから、どれだけ上手い修復か見てやろうと期待して進むに違いない。フェルメー

          若さについて

          近頃、若さについて考えるようになった。それは自分が若さを失いつつあることの証かもしれない。若さについて最もよく分かるのはこの時期、最早若さの真っ只中ではないと同時に若さを懐かしみ美化することもない時期ではないだろうか。 若さは、年齢のような単純なものでは無論なく、美しさというほど捕らえがたいものでもない。ここでは、生活が習慣に従う度合いが低いことを若いという、このことさえ認めていただければよい。年少の者はそれだけ経験が乏しく、未知の出来事が多いものだから、その分若いことが多い

          若さについて

          岩野泡鳴『発展』

          日本の自然主義文学と言えば藤村と花袋に極っている。その作品は文学史上の価値しか持たぬことになっているので自然主義なるものも硯友社の後、白樺派、新感覚派等と名の付く諸潮流の前に流行った或る潮流として片付けてしまうのが落ちだろう。岩野泡鳴という人は、正宗白鳥や徳田秋声と比べても影が薄いようだ。僅かながら文庫化されている『耽溺』『発展』『毒薬を飲む女』『放浪』『断橋』『憑き物』といった小説は、岩波の『耽溺』を稀に古書店で見かける程度で、白鳥、河上徹太郎、舟橋聖一、石川淳、吉田精一の

          岩野泡鳴『発展』

          コンラッド『放浪者』山本薫訳

          ジョウゼフ・コンラッドの作品から、陸暮らしの人間を冷やかす言葉を見つけるのは容易い。『闇の奥』(1899)には「角を曲がれば肉屋があり、別の角を曲がれば警察官がいる」という表現がある。船乗りの話が馬鹿げて聞こえるなら、それは常に不安に晒されるという経験がないからだというのである。船乗りマーロウが「人生は馬鹿馬鹿しいものだ」という苦々しい台詞を吐くのは寄る辺ない経験をした後である。彼の言う馬鹿馬鹿しさは、安逸した陸の人間には分からない。『放浪者』の人物たちは陸の人間にしてもその

          コンラッド『放浪者』山本薫訳

          ある道のデッサン

          人家の間に繁る木々からちょこんと顔を出した小柄な月の光を受ける草花や用水路やのただ中で彼は佇んでいる。買い物をするときに毎度通る、人気の無い通りの途中で、ふと脇道に逸れたのだった。そこから5分も行けばよく知る大きな通りに出て、苦もなく帰れるはずなのだ。見知った通りを背にして、前方に見知った通りを予感する。傍を流れる水は、どこからどこへ流れるかは知らずとも、どこかで会ったことはある水だ。彼は光を湛えているかのような猫を見て足を止め、はたと月を眺めた。猫はよそのと変わるまい、月は

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          通行者の記憶

          彼は下宿から表へ出る。下宿は50年のうす寂れた記憶の重みに耐えかねて軋みを立てている。今日もまばらに人の歩く哲学の道の関雪桜が植えられる前、まだほとんどただの琵琶湖疏水沿いの道路でしかなかった頃、この下宿のある洛外の場所には何があったろう。職人が居合わせるような店か家屋があったかも知れない。この下宿が建てられた頃には哲学の道はもうそう呼ばれていて、僅かな重みを湛えていたろう。この人工水路とて、150年も遡れば姿を消す。天皇陛下の勅語を掲げて明治の偉人が進めた文明化の産物である

          通行者の記憶

          実在の思い込み─あるいはロマンティスト

          火傷を負ったと思い込んだばっかりに、本当に火傷痕ができるということがあるという。こうしたたぐいの現象は、プラシーボ効果然り、さほど奇想天外でもないだろう。実際に湯気の立つ熱湯が掛かった時と、完全にそのように思い込んだ時とでは、意識は本質的に同じと言えるのではないか。「実際に」という部分にしか差異はないわけである。実際には別の出来事であったことが後々判明したとか、顧みれば状況からして実際にそんなことは不可能だったとか、他人なり記録媒体なりが実際の様子を示したとか、とにかく体験が

          実在の思い込み─あるいはロマンティスト

          様々な容れもの

          御婦人がゴネている。有料駐輪場である。 みんなずっと待たされた、故障はあなた達の責任だ、みんなに払わせる気か、と叱責を頂戴したTシャツ男が情けない面を下げている。 30分の間日が暮れるのを見せつけられた少女は目を泳がせるばかりである。面前のTシャツ男のおかげで200円払いさえすれば帰れると思った矢先に、「みんな」を掛けた戦いが始まってしまったのだ。これは負け試合に極っている。御婦人が相手取っている官僚制は融通という言葉を永久に理解しないのだから。コンピューター以前の社会に今な

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