なぜ勉強しなければならないかという問い

子供というのは大人が考えているより理屈っぽくて、また大人が考えるより未熟であるというようなことをルソーが言っている。子供も理解し、識別し、判断する必要は当然あるため理屈を知っているが、人生経験、社会経験、要するに浮世の道理を、これも当然ながら知らない。大人は浮世の道理を弁えるとまで言わずとも、常識やら処世術やらによって生かされていて、そういう習い性となった見方考え方は眼鏡のように外すことはできない。その目で子供を見ると信じられないくらい未熟に見えるから、難しいことは分からないんだと思って、大人が難しいと思うことを大人は避ける。これも経験から分かることだが大人が難しいと感じることと子供が難しいと感じることは随分違うもので、大人の方では、理屈で考えたり、直接感じたことについて思いを凝らしたりすることは、常識のおかげでとっくに卒業してしまっているから、こんなに厄介なことは子供に分かるまいと思うのだが、子供はといえば未熟なおかげでほとんど理屈と自分の感覚だけを頼りに生きている(随分早くから大人の顔色を窺って生きねばならない人も多いのだが)から、大人にとって当然のことが却って分からないわけである。
そういうわけで子供からすれば、大人はよくもまあこんなに荒く非情で不条理な社会の波風にあっけらかんと乗っかっているものだ、とでもいいたいところで、少なくとも初めのうちは誰でも、世に言う常識やら慣習やらを納得しなければ呑み込めない。で、なんで勉強なんかさせられるのかというのもその一つであって、四の五の言わず将来(学歴、職業、教養…)のためにやれと言って納得するのは大人だけなのだ。なんとなれば大人の言う「将来」たるや、これまたウン十年生きてきた社会のことに他ならず、それこそ子供の納得できない得体の知れない怪物なのだから。
なぜ勉強しなければならないか、なぜ学校に行かなければならないかという問いが重要なのは、誰しも直面する可能性があり、しかもこの問いを通して直面する相手は社会の強制力だからである。良きにつけ悪しきにつけ社会という得体の知れない力が自分を牢獄に閉じ込め、命令し、それに順応させて大人しい人間にしようとしていると考えるようになる最初の機会はこの問ではないか。だから大人の側は慎重に答えなければならない。もしよく勉強して賢くなって欲しければ、理と情をうまく使い分けて納得させなければならないだろう。大人の条理で突き通せば、反抗児になるか非行少年になるか、はたまた卑屈な従者になるか引きこもりになるか、分かったものではない。信義礼智の徳が大事なことは言うまでもないが、論語は浮世の道理を弁えたものの本である。


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