学ぶ人へ

「ものが分かるようになるにつれて、如何にものを知らないか思い知らされる」というアインシュタインの言葉は、英語の教科書のコラムで見て、感心したものである。簡単な単語ばかりだから覚えやすかったのもあるだろう。これをまるごとひっくり返すと、自分が如何にものを知らないかを自覚していない人は、それだけ勉強不足だと言える。ただし、勉強不足な人がそれを自覚していないとは限らない。勉強満足ということはないわけで、アインシュタインだって、無知を自覚しながら勉強したに違いない。そこらの少年でも、ちょっと考えれば「思い知らされる」ことができる。分かるというのは、分けることができるということで、分かれば分かるほど、知っていること同士をきっちり分けておくことができるし、知っていることと知らないことを分けておくことができる。「子の曰わく、由よ、女(なんじ)にこれを知ることを誨(おし)えんか。これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らずと為せ。これ知るなり」(学而第一『論語』金谷治訳注、岩波文庫より)。ただ、知らないことを知った気になることはあっても、知っていることを知らない気になるということはない。思い出すべきときに思い出せない知識はないも同然である。とすれば孔子の言葉を言い換えて、知らぬことを知らぬと知れ、後からやっぱり知らなかったなどという破目にならないときだけ知っていると言え、と言ってもいい。そういう意味で確実に知っているということはないと言ってもよく、この確実な知への欲求は、やがてデカルトのように一切の交流を断ち、一切の知識、一切の仲間、一切の判断を疑い、なお疑い得ないものを探すという非常な精神的負担を強いるはずである。デカルトの第一原理は無条件の真理だが、条件付きの正しい知なら得られる。例えば自販機の飲み物の値段、四則演算、友達の顔、これらのものは、よく見たことがあったり、使ったことがあったりして、間違えることは滅多にない。だが、百円の価値はどのくらいかとか、1たす1は何故2であってそれ以外ではないのかとか、友達の顔を描いてみろとか言われたら、困るわけである。だから大抵のことは知っているが、よくは知らないというのが我々の状態と言っていい。絶対確実な知を持たないからと言って、何も知らないというのでは、知に度合いがあることを知らないようなものである。自分が知っていることが持つ条件の狭さを的確に測ることが知るということである。ものがよく分かるようになればなるほど、この能力が鍛えられる。ものが分かるようになるというのは、成績を伸ばすこととは関係ない。「子夏が曰わく、賢を賢として色に易え、父母に事えて能く其の力を竭(つく)し、君に事えて能くその身を致し、朋友と交わるに言いて信あらば、未だ学ばずと曰うと雖ども、吾れは必らずこれを学びたりと謂わん」(学而第一)。


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