ヘーゲルの精神現象学について
斎藤幸平著『精神現象学』を学びます。全般ではなくて、特にケアに絞って書きます。
斎藤氏は、マルクスの著書で、ベストセラーとなり有名となった方ですが、何故か、ヘーゲルの解説本を刊行し、かつNHKテレビ番組「100分de名著」でも出演して解読していたことに、違和感がありました。マルクスはヘーゲルの弟子であり、マルクスを理解するためには、ヘーゲルの哲学の理解が不可避であると説明していたことで納得しました。
ヘーゲルといえば、弁証法となりますが、斎藤氏によれば、「自分の知が否定されるような矛盾に耐えて考え抜き、悪いところは棄て、良いところは残しつつ、より高次の知を生み出していく」と定義づけることできる、と述べています。
とはいえ、SNSを見ても分かるように、Aの意見とBの意見は、完全に対立していて、統合するどころか、分断しているのが実情だ。特に、アメリカのトランプ派とバイデンプ派では、内戦が突発するのではないかと思われるほどになっていて、取り付く島もない状態になっている。
これがヘーゲルを悩ませた難題であった。そして、『精神現象学』で辿り着いた答えが、「相互承認」というわけです。
この「相互承認」とは、互いの良さを認め合って仲良く生きていきましょうとか、多様性を尊重しましょうという話ではない。
そもそも、『精神現象学』という本は、「意識」という主人公がいて、これが段階ごとに「自己意識」、「理性」、「精神」、「絶対知」へと駆け上がり、素朴な若者が、社会で揉まれていって、徐々に賢くなっていくという教養小説のような構成となっている。
ヘーゲルは意識を三つのタイプに分けている。
意識:狭義の意識は「対象意識」とでもいうべきものである。意識は、①感覚的確信ー②知覚ー③悟性という順番で進む
①感覚的確信ーーーこれが意識経験のスタート地点でありいわば最低次の意識である。「これ」とか「あれ」とかの指示語でしか表現できない。
②知覚ーーーさまざまな諸性質をもった物として認識するものである。
③悟性ーーー目のまえにある具体的な物を対象としない。物に宿る普遍的な性質を見出そうとする。自己意識:自己意識は、自分の外なる対象ではな く、もっぱら「自己」を意識する。そして、自己の自立性と自由とを実現しようとし 他者や自然に関わっていく。
理性:理性は対象意識と自己意識との統一であって、対 象や世界は自己と深くつながっていると確信している意識である。
「自己意識」という章で、「主奴の弁証法」で「相互承認」が展開されている。
動物は、お腹が空いたという欲望が発生したら、すぐに餌に食いつくが、人間は状況を見て、欲望を我慢することもできるので、ヘーゲルは、こうした反省する意識のあり方を「自己意識」と呼んでいる。
動物的欲望を乗り越えた自己意識は、自分はいよいよ自立した存在だと確信し、それを現実に証明したいと考える、ということです。
自分が自立を望むなら、他者も当然それを望むこととなり、そこで命がけの争いが勃発する。争った結果、勝った方が主(主人)となり負けた方は奴(奴隷)となる。これが「主奴の弁証法」の始まりとなる。
ところが、ヘーゲルは、自立しているかのように見える主人は、奴隷の労働と奉仕に依存しきっていて、その反対に、主人に依存しているかのように見える奴隷は、労働を通じて、何もかも自分で作りだすことができるということを曝露するわけです。
つまり、主奴の関係に逆転が起きていて、見方を変えると、主人のほうが依存的で、むしろ奴隷のほうが自立的な存在であることが判明する。このように自立と依存という真っ向から対立する二つのものを統合していく思考法を弁証法というわけです。
さて、こうしたヘーゲルの思考法を現代に応用しているのが、斎藤氏の、独特な解釈だと思われる。この主人を、企業の男性経営者に当てはめている。見かけは、自立しているようでいて、社員や秘書の献身的な労働に依存し、家庭では、食事、洗濯、育児、介護などで家族やケアサービス依存していて、非自立的な存在である、と述べている。
さらに、こうした男性経営者的なモデルを称揚し、社会制度もそれに合わせて設計されていると言う。つまり、男性的自立を「本質的」なものとし、ケアワークや奉仕活動は「非本質的」なものとして評価が低められていて、その結果、賃金や社会的ステータスにも歴然と現れている、というわけです。
相互承認については、『精神現象学』後半の「精神」の章で、詳しく論じており、その内容については本誌第4回で解説されています。ケアについて、書くということに絞ったために、相互承認とは何かについては省きます。
当方は、約18年間介護界に、関わってきましたが、賃金の低さは、相当なものでした。賃金を上げるには、利用者の負担を増やすことになり、利用者数が減少するという、ジレンマを抱えていて、どうにもならないという絶望感がありました。
賃金を上げようという、アドバルーンは良いのですが、具体的な案を提示するのは、極めて困難です。ひたすら、良心的な経営者の温情にすがるのも手ではあるが、そうした経営者はいるのでしょうか?
少なくとも、当方がかかわってきた、経営者は、そうした温情があるどころか、極めて不鮮明な経営ぶりでした。あげくには、姿を消して逃げてしまい、デイを閉鎖に追い込んだような人物でした。そんな中、約18年間も続けることができたものだと、感心しています。話しが脱線しましたが、案外、このことを書きたかったかも知れません。