「よい」教育とは何か(1)
苫野一徳(著)『どのような教育が「よい」教育か』に基づいて、教育問題について、考えてみる。
「 よい」 教育 とは 何 か という 問い を 探究するにあたっての問題点を、苫野は、下記のように述べる。
こうした現代政治哲学の諸理論や、これを援用した規範主義的教育哲学の諸理論が抱え込んだアポリアを解消するには、欲望論的アプローチを採用すれば良い、というわけである。
現代政治哲学を代表する諸アプローチとして以下の三つがある。
①道徳・義務論的アプローチの思考法
②状態・事実論的アプローチ
③プラグマティック な アプローチ
今では、かなり細分化されているため、上記の三類型には収まり切らないものもあり、それぞれの理論をあまりに歪曲化しているという批判があることは、周知の上で、考察する、と断りをいれている。
道徳・義務論的アプローチの思考法とは
たとえば、ロールズは次のように言う。
要するに、ロールズは、
と主張するのである。
一方リバタリアンの代表的論客であるロバート・ノージックは、ロールズとまったく反対のことをいって彼を批判している。
どちらが正しいかについて、苫野は下記の通り、結論づけている。
その理由は
こうした二項対立的問いは、どちらが正しいか、という問いに、絶対的な決着はつかない。
したがって、私たちがなすべきことは、
ということである。
状態・事実的アプローチの思考法とは
ロールズのリベラリズムを批判したのは、コミュニタリアンの代表的思想家のマイケル・サンデルである。
サンデルのロールズ批判は、おおよそ次のようである。
そこでサンデルが重視するのが「共通善」の政治である。
一般にはコミュニタリアンと目されているチャールズ・テイラーもまた、人間は独立した個人ではあり得ないことを強調している。
しかしこのアプローチは、二つの点において原理的な問題を抱えている。
①何をもって「状態・事実」とするかは、決して一義的に決めることが
できないという問題である。
②この共通価値を涵養すべきである、という論理は、共通価値から抜け
出したいという欲望を持つ人たちを抑圧しかねない危険性をもっている。
何らかの状態・事実認識は、常に欲望・関心相関的である。それゆえある一つの状態・事実論を前提にして規範を導出することは、恣意的であると同時に、時として危険ですらある。
それゆえ当事者の欲望を思考の始発点としないことで生じる状態・事実論的アプローチの問題を克服するために、このパラダイムを欲望論のパラダイムへと転換する必要がある。
現代プラグマティズムの代表的論者は、リチャード・ローティである。
彼 は まず 次 の よう に いう。
ローティ の 方法 は、 ひと言 で いえ ば、 その都度その都度、どうすれば「うまくいく」かを考える、というものになる。
しかしこのアプローチも、残念ながら問題がある。
欲望 論 的 アプローチ は、
プラグマティック な アプローチに対して、欲望論的アプローチの優位性を下記に示す。
①プラグマティック な アプローチ が その 都度 の「 よい」をどのように
判断すればよいか具体的な方策を示すことができなかったのに対して、
欲望論的アプローチは、その内実の問い方をはっきり明示した点にある。
②プラグマティズムがその 都度 その 都度 何 が「 うまく いく」 かを
考える という 際、その「うまくいく」の基準をどう判断すればよいか
方法を持たなかった。
③欲望 論 的 アプローチ は、 すべて の 社会・教育 論 が 欲望・関心 相関
的である以上、私たちは各自の欲望を問い合うことでその確かめ可能な
本質を見出し、その上でこの各人の本質的欲望を、どうすれば最も十全
に達成することができるかという方向に向けて考えていくことができ
る、とその具体的方法を明らかにする。
④プラグマティック な アプローチ に対する 欲望 論 的 アプローチ 最大の
優位は、この具体的な考え方を明らかにした点にこそある。
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