きっと明日は晴れるでしょう
午前10時半、僕は新幹線で移動をしている。所用のため1週間ぶりの関西入りである。昨日も予定が入っていて、そのために既に移動が済んでいるはずだったのだが急遽流れてしまったために、広島で所用を済ませつつ、突然できた空き時間を使って気になっていたアニメを大量に視聴した。
アニメは良い。筋書きのあるものを何も考えず空っぽな頭で受け入れることでキャラクターの言葉や心情がビシビシと流れ込んでくる。お茶子ちゃんの未成年の主張で泣いてしまった。
曇天な空の下、音速に近い速さで走り続けてる僕だが、どれだけ進んだとしても曇から逃れることは出来ない。全国各地で雨模様なのだから仕方がない。これはどうしようもない事だ。
空は暗く、もちろん太陽は見えてはいない。青空は封をされて、気持ちの塞ぐような灰色がかった空気が窓の外を流れる。
僕は「日和」と名乗るだけあって青空が好きだ。太陽から注がれる光や、その光を受けて立ち上がる草木、心を軽やかにしてくれる限りなく続いて見える空、どれもこんなに良い日和なのだから、とあらゆる許容性を拡張してくれる。
しかし、そんな良い日和と言うのも都合よくずっと続くわけではないのだ。日が沈めば夜が来るし、自然の循環で空は曇り、雨や雷を落とす。そうグルグルと回っているようなものだ。
明日はきっと良い日になる。なんてセリフは多い。こんなものは気休めである。気休めであるが、自然の循環と同じように僕たちの日々もグルグルと回っている。
明日ではないかもしれない、明後日もまだ晴れないかもしれない。しかし太陽を探して顔を上げていれば、気付いたら青空の下に立っていたなんてこともあるのではないだろうか。
その人にとっての希望や大切なものというのは、無くなってしまった訳ではなくて、雲の向こうに隠れていたり、少し距離が離れていて目を凝らさないと見えなかったり、ただそれだけのことなのだ。
毎日が大変なこともあるだろうけど、ただの気休めでしかないけれど、こんな言葉を抱きしめていると日々の歩きも少しは軽やかになるのではと、思います。
きっと明日は晴れるでしょう
〆。