思い出の主導権は私が握りたい
なんでこんなに好きになったんだろう と
なんでこんなに忘れられないんだろう の
本質って同じだと思う。
好きになったのに明確な理由がない人ほど、忘れるのだって理由なく難しい。
きっと、両想いのフリをした片想いだったことがあった。自分の想いが強いほど、相手の想いも強いものだと思い込んでいた。
彼の好きなところは沢山あったのだけれど、今振り返って、本当にそれらが好きだったのかと問われると自信がない。
明確な理由のない「好き」はとても強力だ。
何もかもなぎ倒してくる「好き」だから厄介だ。
「好き」が先にあったから、彼に付随する色々が好きになった、が正しいような気がする。
でも大好きだった、本当に。
会わなくなって随分経つと、脳裏に浮かぶ彼はもう彼ではなくて、断片的な記憶を繋ぎ止めてできた彼の面影だった。
大して多くない容量の頭なのに、そんなもののためにスペースを明け渡す必要なんてないよ、と自分に言い聞かせてみるも、ぼやけた彼の輪郭をなぞって追いかける日々はなかなか終わらなかった。もはや癖だった。
何度も何度も別れから出会いまで遡った、擦り切れたテープのような記憶。
全て書き起こしてしまいたい、
ふとそう思った。
忘れたかったのか、忘れたくなかったのか分からない。ただこの感情が在った、という事実などを残したかった。
思い出が何の前触れもなくやってきて頭を支配していくようなこの日常は、全てを出し切ったときに終わりにできるかもしれない、という望みもうっすらあった。
感情。情景。言葉。姿。表情。体温。気配。
多少の補正が加わっていただろう、けれど紛れもなく、それはあの日々だった。
言葉にすると、すっと、手放せた感覚があった。きっとそれは「執着」だった。もう頑張って記憶していなくたっていいと、脳が理解していた。
スマホのメモ帳に積み重ねていった言葉の数々。少し勇気を出してネットの海に投げ、メモ帳から消した。さらに自分の手から離れた感覚があった。
ネットはどこまでも広がる海のようで、傍らに佇むキャビネットのようでもあった。何事も拒むことなく受け入れてくれる懐の深さと、時が経っても色褪せることなく保管していてくれる忠実さがあった。
もし思い出を取り出したくなったなら。
鍵のかかっていない引き出しを好きに開けたり、閉めたり、開け放ったままにしても良いと教えてくれた。
私が知ったのは、優しい世界だった。
言葉は不思議だ。
手放したいときにも、手放したくないときにも頼りたくなる。
あの日々はあまりにも感情と結び付き過ぎているから、忘れるときは感情ごと忘れるときだと、今では諦めも付いた。
特別に大切にしている訳ではない。
思い出とは苦しくならない程度に付き合っていきたい。だから、私は時々言葉にならない感情と向き合って、あえて言葉にしてみたり、引き出しから思い出を取り出して眺めてみたりするだろう。
主導権は私が握って。