型破りな悪役であれ
僕はアニメやマンガが好きだ。1日1回は何らかの作品を見てるしnoteのネタにすることもある。その中でも結構悪役が好きだったりする。呪術廻戦の宿儺とか銀魂の次郎長とか、五等分の花嫁の二乃もそこに入ると思う。
宿儺とか鬼滅の無惨みたいな低音イケボが個人的に好きってのもあるんだろうけど、次郎長や二乃みたいに自分の思いのために主人公と対立してる人が好きなんだろうな。主人公が正義なら悪役は悪だけど、悪役側が正義の主人公として物語が進行すれば元主人公は悪役になるみたいな。どちらがいい悪いではなく、己の正義のぶつかり合い。その戦いに勝てば正義となり負ければ悪となる。世の中と一緒。
この趣味を表現するなら型破りな人が好きだということだと思う。
で、この型破りってのは破る型が無いと存在できない。では破られる型とは何か?それが基本とか常識とか言われるもの。
「でも常識ってみんながいいと思うものってことだからそれが最善なんじゃないの?」
僕もそう思っていた。だけど、どんなにみんながいいと思っても、僕がいいと思わなければそれは間違いなのだ。人生の正解は自分の中にしかない。そしてその正解は人によって違う。その違うものを妥協で平均化したものが常識なのだ。例えば年上の人には敬語で話すこと。礼儀が大事って思う人は年齢関係なく敬語で話すし、相手がタメ口だったらこっちもタメ口でいいだろって思う人がいる中で一番平均的で当たり障りの無い常識。常識がある理由なんてこんなもん。争いが生まれなくていい世の中になると思う反面、なんか違和感があるけど同調で従わないとと思わせられることもある。ここで従うか抗うかがモブと悪役の差なのだ。
父親に言われて来た家庭教師が気にくわない。だけど姉妹達は受け入れ始めてる。私達姉妹の仲に割って入ってくるな。そうやって抗うから二乃は悪役として物語に登場し、ストーリーが進むにつれ変わっていく様がとても魅力的なのだ。
自分の思いを表現すること。これは常識ではないけど正解だと思う。そして僕はこれを常識にしたい。生活のすべてがそうなれとは言わないけれど、ある一定の時間だけでも自分だけの「いいと思うもの」を表せる場があっていいと思う。
だから好きの中で生きる人を東京ドームに集めてグチャグチャの観客席を作るという夢がある。そのためには好きの中で生きる人を作る必要があるし、そもそも自分がそうでなきゃ人におすすめはできない。だから僕は好きの中で生きていく。そんな思いに気づかせてくれたのがマンガの悪役達なのだ。
ということで終わり!またね。