母を助けたかったんじゃない、母に助けてほしかった
もしも母が僕の背中に手を添えて慰めようとしてきたら、僕はその手を叩き落とすだろう。今更優しい振りをするな、もう騙されない、と。昔の母なら、せっかく気遣ってやったのにとキレ散らかすだろう。今ならどうかわからない。
僕の反応は明らかに過剰だ。母は軽く手を触れただけ。非のないはずの温もりが過去を呼び起こす。僕は過去に怒っている。かつて表現することも持つことさえも許されなかった怒りを、胸の深い空白から汲み上げてぶちまける。
僕が一番助けてほしかった時、母は自分のことで手一杯だった。
母は「子育て」を頑張っていた。つまり母自身が立派な母親だと周囲に認めてもらうための努力を。母は頑張っていた。負担を感じていた。支えてくれる人が必要だった。そこには僕しかいなかった。
辛い気持ちに寄り添って肯定してあげられる、母が喜べば共に喜び、母が不機嫌なら笑顔を慎む、欠点をあげつらい笑われてもヒステリックに罵倒されても黙って耐える、そんな「良い子」に僕は育った。
母の精神の安定は即ち家庭の平和で、家で平穏に過ごしたければ母に機嫌良くいてもらう努力をする他なかった。
それが当たり前だった。母を助けようとしないなんて人としてあるまじき罪だった。
本当は母に助けてほしかった。寄り添って受け止めてほしかった。僕が母にしてきたことは、僕が母にしてほしかったことだった。
ずっと期待していた。いつかわかってくれるかもしれない。辛かったねと共感してくれるかもしれない。謝ってくれるかもしれない。大好きだよと言ってくれるかもしれない。
期待はいつも裏切られた。母の中身は空っぽで、僕に与えることができるものなど持っていなかった。ほんの些細な一言を自分への非難と捉え、自動的に反撃して身を守ろうとする、意思のない反射で動くだけの存在。
虚しく苦しく見えようとも母の人生だ。僕が変えさせることはできない。母のために自分の労力を割こうとももう思えない。
僕は僕の人生を生きなければならない。一番愛してほしかった人にまともな愛をもらえなかった悲しみと折り合っていかなければならない。怒りは正しい相手にぶつけなければならない。今の母ではなく、記憶の中の大きかった母親に。
悲しみも怒りも、何十年経ったって忘れない。母のことは許さない。それでも過去は過去でしかない。どんなに辛かった出来事も今の僕に直接危害を及ぼすことはできない。今の僕は安全なのだと自分自身にわからせてやることが必要なのだ。いつまた傷付けられるかと身構えている子供の自分を安心させてやるのだ。