このあいまいな心といふもの ~「心」 椎名林檎 / 東京事変
このあいまいな心といふもの
「心」
誰にでもあるのに、わかるようでわからない。
このあいまいな「心」といふものはいつどのようにして認識されたのか。
能のシテ方でもある安田登さんの著書「あわいの力」によれば、それは3000年ほど前の出来事なんだそうだ。
殷の時代の中国において、文字(甲骨文字)が発明された時がそのタイミング。
つまり、文字によって、あいまいな「心」というものを具現化し、形象化し、結果、自己認識するに至ったということらしい。
「心」=「自己認識」
文字による記録
文字による記録は、
自分自身の想い=過去の思い出、未来への思い、を書き出すことを可能にした。その結果、我々の内面に「未来への漠然とした不安」、「過去への後悔、悔やみ」が浮かび上がってくることになった。
同時に、
こういった不安を感じる自分自身の具体的な像も浮かび上がる。
これもまた「心」の作用なのだそう。
処方箋としての宗教
この「自己認識」=「自意識」が芽生えたがゆえに、このような苦難をも生み出すことになり、それへの解決策として哲学や宗教などが誕生した。
宗教は、いわば処方箋の役割を果たしていた。
処方箋が機能を失った
ただ、科学が発展した現在となっては、森羅万象の中に神を見出す意識が薄れ、人類は大切なものを失ってしまった。
ゆえに、処方箋が処方箋としての役割を果たさなくなりつつある。
あいまいな「心」は、具体化されたが故に新たな悩みをもたらした。悩み解決に宗教が誕生したが、文明開花で処方箋が機能しなくなった。そんな昨今では、「心」は、よりあいまいになっていて、誰もがそれに起因する過去への後悔や、未来への不安にさいなまされている。
それが現在の人類の悩みの根幹。
何にすがれば良いかわからない。
「心」がまた、見えにくくなった。
心と云う毎日聞いているものの所在だって
私は全く知らない儘大人になってしまったんだ
(一部引用:東京事変「心」)
「心」と云う毎日聞いているものの所在
「心」。
誰かに体に触れられたり、太陽を肌に浴びるだけでダイレクトにその感覚が内部に伝わり、その瞬間、揺れ動くあいまいなもの。
今は何がそれを繋ぐのか。
「あわいの力」
能の世界では、舞台と楽屋口をつなぐ橋(通り道)があり、この通り道があの世とこの世をつなぐ架け橋である。つまり舞台はこの世。舞台で繰り広げられる世界や物語はこの世の出来事。そこで動く者たちはシテもなにもかも、あの世から降臨した亡霊や精霊。
はっきりしているようで、実はあいないな存在。「心」のように。
「あわい」とは媒介の事。あの世とこの世をつなぐ媒介。「心」と肉体・現世をつなぐもの。
能でいうとワキの存在がその媒介。
であれば、生きようとする意志、あえて困難に立ち向かおうとする意志、そんな思いが「心」と肉体・現世をつなぐ媒介になるのかもしれない。
つまり、見えないものと、見えるものを繋ぐ存在。
これからの時代、「あわいの力」が新たなる処方箋になるのだろうか。