制作と批評の創造的な平行性——さまざまな平行論を横断していく概念、哲学による「現代アート」批判(無内容な思考が身体を乗っ取ることに抵抗する)——
二流の概念[ex. 中動態、あるいは、地域、関係性など:引用著者]とは、漠然と体験なるものにすがりついて、おのれ自身の足りないところを補うといった底のものである[i]。——ドゥルーズ&ガタリ
彼らは、身体が何をなしうるかまた身体の本性の単なる考察だけから何が導き出されうるかを全然知らない[ii]——スピノザ
「批評の使命は概念をつくりあげること[iii]」、「概念は、来るべきひとつの出来事の輪郭、その配置、その布置である[iv]」——ジル・ドゥルーズは批評と概念[v]についてこう述べていたが、残念ながらこのような営みはほとんど行われていないのが現状である。批評とは制作された作品の紹介や記述ではないし、哲学や思想の概念をただ当てはめることでもない。また、〈私〉の主観的な好みを語り自分のセンスを誇示したり、政治や社会の問題にすり替え論評をしたりして、作品を別の目的に利用することでもない。同じように、批評をそのまま鵜呑みにして制作をすることや、流行の概念をただ右から左に移しただけの作品も問題である。さらに、批評の内容を検討せずに、作者が著名な雑誌に作品の批評が載ったことや、有名人に批評してもらったことを喜ぶだけなのも問題だ。制作と批評はたしかに関係があるはずだが、今のところは(不健全な)依存関係や共犯関係のほうが多くないだろうか。作者は作品制作の栄養補給と権威づけのために、そして、批評者は創造的な営みができないので創造行為に関わるために、外部にある哲学や思想の概念を求めることになる。作者の制作と批評者の批評のあいだには概念が介在しているが、それはおたがいの足りない部分を補いあうようにしか存在していないのだ。しかしながら、このような現状をただ批判しても建設的ではないので、私たちは制作と批評の関係を概念の創造によって変えることを目指すだろう。その概念とは、芸術における制作と批評の「創造的平行論[creative parallelism, parallélisme créatif[vi]]」である。
批評の基本的な概念は「内容」と「形式」の二元論であるが、ほとんどの場合、どちらかが一方に還元されてしまうことが多い。一般的に注目されるのはやはり「内容」のほうであり、鑑賞者である〈私〉が登場人物に共感や同情をしたり、(分析してみるとたいてい同じ筋なのだが)物語やストーリーに心を動かされたりするのだ。また、日本における不祥事発覚後の作品回収や上演中止は、作品における他のすべての要素をなかったことにして、ひとりの芸能人=作品として考え、〈私〉がその芸能人を嫌うことへと還元されてしまう。それに対して、カントは『判断力批判』において、美的判断は「内容」ではなく「形式」に対してなされるべきであることを主張した。作品の「内容」に囚われると、気づかぬうちに自分の関心にあうかあわないかでよさを判断してしまい、作品とは関係なくただ関心を満たせたからよいと判断してしまうからである(美的な「よさ」との混同:〈私〉と政治的な主張が同じだから「良い」、〈私〉と道徳的な価値観が同じだから「善い」)。したがって、「形式」に対する判断とは、「何を」ではなく、「どのように」表現しているかの判断となる。それは、ひとつの視点しかもてない〈私〉から離れて、正解のない表現「形式」の「よさ」を探っていく試みとなるだろう。そして、カントの形式主義を受け継ぐクレメント・グリーンバーグは、それぞれの芸術ジャンルにおける純粋なメディウム「形式」への自己-批判をモダニズムに見いだすことになる。これらの思考には、芸術における形式-内容という二元論があり、どちらを選択するのかということが問題となる。「形式」なのか、「内容」なのか、あれかこれか。たとえば、小林秀雄であれば徹底的に「内容」を〈私〉へと還元し、精密な作品の分析など放棄して、感情を煽るだけの文体によって作られた作者と小林と読者の〈私〉による共犯関係を批評と称するだろう(〈私〉=〈私〉)。蓮實重彥であれば、「表層批評[vii]」として作品をあらゆる外部へと還元することを禁じ、映画であれば光が投影されるスクリーン、本であればページの表面というまさに作品の表層に証拠があることだけで批評をするだろう。それは、〈私〉が深いと思っているだけのことを、作品の「内容」と恣意的に結びつけることを批評と称してきたことへの批判である(マルクス主義批評が終わった後で、作品を流行の政治的・社会的な問題と結びつけようとする行為が急激に増えてきたのは興味深い)。この〈私〉というのは作品そのものからはつねに逃げようとするのであり、作品の外部に〈私〉のためのアリバイを作り、誰かの言説をコピーして論じたように見せかけるのだ。そして、このアリバイ作りが批評だけではなく、制作にも浸透していく…。
小林秀雄は「内容」を選び、蓮實重彥は「形式」を選ぶ。ところで、デカルトは心身二元論を提唱したが、それは「我思う、ゆえに、我在り」のように、〈私〉⇒〈私〉へと向けられ純粋に意識だけで生みだされたものを精神とする。他の日常的な意識は身体がもたらすものであり、とくに、情念などは理性によって制御しなければならない。デカルトはあくまで精神に優位を認めるのであり、精神と身体ならば精神を選ぶのだ。それに対して、スピノザは、身体に起こったことが精神にも生じるという心身平行論を唱えた。身体と精神は属性の平行関係にあり、身体に起こった同じことが精神にも生じるのだ(交わることのない平行関係:身体が何かにぶつかる-精神に痛みが生じる)。したがって、身体は精神によって統御されるべきものではないので、身体の新たなあり方を(共通概念によって)探っていくことができるのだ。しかしながら、スピノザの平行論は存在論的なものにまで及ぶのであり、精神と身体だけではなく無限の属性が世界にはあり、それらの属性にも観念が平行して生じることになる。そして、第三種認識とは永遠の相の下にある観念の観念を、自己原因によって把握していくことである(この本の主題は、むしろこれに対抗して、身体の身体である)。それならば、作品における「内容」と「形式」も、あるアイデアやテーマ(内容)を形式化するという関係ではなく、別の平行関係にあると考えることはできないだろうか。たとえば、小林秀雄の場合、その著作では、俺が良いと思ったから良いという内容を、抒情的な文体によって形式化しているのだろうか。むしろ、「内容」が説明すれば消えてしまうらしい美(?)であり、「表現」が読者の感情と共感を徹底的に煽る文体であり、「内容」と「表現」ともに〈私〉という視点によってのみ形式化しているのではないか。蓮實重彥の場合、『映画狂人 シネマの煽動装置』のように、「内容」がさまざまなショットとモンタージュの流れにおける「誰もが見落としてしまう作品のよさを指摘すること」であり、「表現」が一冊の本を一文だけで構成すること[viii]であり、一つの視点に何かを閉じ込めることなく、あらゆるものを運動として把握することで形式化しているのだろう。ゴダールが言ったように、「正しいイメージなどなく、ある一つのイメージがあるだけ」なのだ。世界を〈私〉によって閉じ込めて、共感しない者は排除しようとする小林秀雄と、誰もが精密に映画を観て自由に批評できるようにしようとする蓮實重彥(作品に証拠のあることしか言わないので、批評が間違っていると思ったら作品をみんなで観て確認できる)、閉じようとする形式化と開こうとする形式化、どちらが誠実なのかは明らかであろう。
このようにして、さまざまな営みはただアイデアやテーマである「内容」を何かで切り取り「形式」として表現されるのではなく、「内容」と「表現」のそれぞれに形式が存在している、といえるだろう。それは、ソシュールのシニフィエ(意味されるもの)-シニフィアン(意味するもの)という関係性の二元論を批判的に受け継いだ、ドゥルーズ&ガタリがスピノザ主義者と呼ぶイェルムスレウの思考と重なっていく。
イェルムスレウは、質料、内容と表現、形式と実質という観念によってある解読格子の全体を構成するにいたった…この解読格子にすでに、形式-内容と手を切っている利点がある。というのも、表現の形式があるように、内容の形式というのもあるからだ…そしてイェルムスレウ自身の意図に反して、この解読格子は言語学上のそれとは別の射程、別の起源をそなえている[ix]。
重要なのは「内容」と「表現」は別々に生成してくることであり、しかも、始めからそれらの「実質[substance:本質]」が存在していて形式化されるのではなく、「実質は形式によってのみ存在[x]」しており、「ちょうど広がった網がその影を分割されていない表面に投げかけるように、形式が質料に投影されることによって、内容の実質と表現の実質は現れる。[xi]」この内容と表現、形式と実質という解読格子が重要なのは、これらを用いることで(一部の)現代アート作品のあり方を分析できることである。あたかも、本質的なものがあり、それが表現されていると考えると、作者が恣意的な形式によって何かが起こったように見せかけていることが把握できなくなってしまう。たとえば、「関係性の美学」に関する作品ならば、そこにあるのは新たな関係性という「内容」と、それを形式化する何らかの出来事[event](全く異質な人が出会いあり得なかった変化が生じること)ではない。正確にいえば、それは「内容」をよく似た人が集まるということで(さまざまな関係性が他にも存在するにも関わらず切り捨て)関係性を形式化し、「表現」をただオシャレな雰囲気を作ることにして(同じ空間で料理を作って食べる、コーヒーを飲む等)出来事をただのイベントとして切り取って形式化してしまっている。他にも、「地域アート」に関する作品ならば、地域という「内容」と、それを形式化する資料の調査や採集ではない。正確にいえば、それは「内容」をプロジェクトに都合の良い人たちだけがいるものとして地域を切り取って形式化し、「表現」を同じように都合の良い角度から資料の調査や採集をすることで(他にも地域の見方は無数にあるにも関わらず)展示として切り取って形式化している。形式-内容から芸術作品を考えると、「内容」と「表現」における排他的形式による切り取りを思考することができなくなってしまう[xii]。
ところで、作品の外部[xiii]とは、⑴作者の意図、生い立ち、体験や経験、プライベート、影響を受けたものなど(作者の〈私〉)、⑵鑑賞者の気持ち、共感、感想、魂の震えなど(鑑賞者の〈私〉、小林秀雄の〈俺〉)、⑶作品制作時の裏話、時代背景、起こった事件、経済や政治の状況など、⑷〈私〉が関心を持つ政治や社会問題などである。⑶を入念に調べて情報提供する行為(蓮實に影響を受けた町山氏など)はある意味では〈私〉を放棄することであるが、それでも作品の外部であることに変わりはない。⑷によって批評を行うことは、SNS全盛の現代において急激に増えている。おそらく、他人の言ったことをコピーするだけなので簡単であるし、否定されやすい⑵のような〈私〉の主観的なものでもないし、自分と同じ考えを持つ〈私〉の支持を得やすく、何よりも倫理的優越感を存分に味わうことができる。そして、問題なのは⑷が批評だけではなく、制作にも入り込み、道徳的「善さ」と政治や社会問題の思想的・立場的「良さ」を、作品の「よさ」や美的「よさ」と混同させる行為が(一部で)行われていることである。口で言えば一瞬で済む当たり前のことを、わざわざ壮大な作品にして、しかも、それは誰でも知っている政治や社会問題に過ぎないのだ。そして、批判者はすべて政治的な〈敵〉にされてしまう。やる前から成功することが分かりきっていて、〈私〉に共感する〈味方〉と反対する〈敵〉を分けるだけの行為を、アートや作品と呼ぶことができるだろうか。それは、社会にいるあらゆる人を鑑賞者ではなく〈敵〉と〈味方〉へと変えていき、作者の利己的な〈私〉の成功だけが約束された「罠」である。したがって、批判すると〈敵〉にされてしまい非常に批判しにくいのだが、このような行為に対しては、他人のものをコピーしただけで何もやってないことを指摘しなければならない。
この「罠」における形式化は非常に巧妙である。つまり、「内容」は誰かが考えた政治や社会についての言説であり、「表現」は誰かがやった成功例のある手法がもたらすイメージであり、他人がやったことをコピーするという形式化が行われているのだ。政治や社会についての言説は初めに考えた人が世に発表することで、批判を受けてきちんと責任を取ったものである。ある政治や社会の問題についても、それは発見したり、自分で調べたりした人が称賛されるべきであって、「こんな問題がある!」とコピーして連呼する者が凄いのではない。表現についても、ハプニングを起こす、批判できる状況を作る、社会を変革するためのインパクトを与える、新たな公共空間をもたらすなどと言うのだろうが、それは過去にそのイメージを創造し、初めにやって責任を取った人が凄いのであって、世界中でやられているし、何度も繰り返されてきた手法でしかない。つまり、この「罠」においてはアートや作品でありながら、何も創造行為がされておらず、ただ人がやったことをコピーしているに過ぎないのだ。誰でも言えることしか言えず、〈敵〉か〈味方〉かということからしか社会を見ることができない…、他者をこうした「言うこと(言葉、言説的なもの)」と「見ること(視覚、可視的なもの)」に導こうとするのは果たして誠実だろうか。政治や社会の思想・立場は置いておいて(リベラル的な主張は一応同意できるのだが)、人間の「言うこと」と「見ること」を限定し、見限ろうとするこの行いは問題ではないだろうか。〈敵〉か〈味方〉かということではなく、その先に別の前提があることを把握しなければならないだろう。たとえば、ドゥルーズは新聞における言葉(文章)とイメージ(写真)の関係について、あるいは、メディアによって流布される情報について以下のように述べる。
前提は、はじめに思ったよりもずっと複雑なのだ。おそらくそれは見るための手段なのだ。その意味で、これは説明的、説話的再現であり表象である(写真、新聞)。つまりこれらは単に見るための手段ではなく、人はこれらを見るのであって、ついにはそれらしか見ないのである。新聞が事件を作りだす(物語を語ることに甘んじているのではない)、といわれる意味で、写真は「人物」や「風景」を「作りだす」[xiv]。
マス・メディアにおける報道やインターネット上にある情報(文章、音声、写真、動画)は、ただ何かを伝えているのではなくて、私たちはその報道や情報にしたがって、何かを言うのであり、何かを見るのである。新聞における文章は人々の言うことを作りだし、その報道写真は人々の見ることを作りだす。そして、報道や情報としては言葉とイメージはセットである。私たちは誰かが言ったことにしたがって何かを言い、誰かが見たものにしたがって何かを見ているに過ぎないのである。あるいは、誰かが言ったことにしたがって何かを見て、誰かが見たものにしたがって何かを言うに過ぎないとも言えるだろう。「言うこと」と「見ること」は前提として、あらかじめ社会において形式化されており、両者は絡みあっている。私たちは自分から(自分に由って)「言うこと」と「見ること」を行うことができないのだ。(一部の)政治的な作品はこのことを当てにしており、他人の自由を奪うようなことをしている。反体制的であるように振る舞いつつ、じつは、体制に徹底的に迎合するこの態度は一体何なのか。
“creative parallelism”と題されたこの論考は、ジャン・ルイ・シェフェールの『大江健三郎―その肉体と魂の苦悩と再生 哲学的評論』という書物を参考にして作られた。『映画を見に行く普通の男』で知られるジャン・ルイ・シェフェールであるが、この批評文はたいして大江の著作を読まず、さらに、それほど調べることもせずに書かれたようである。それゆえに、(神格化することなく)大江とはかなりの距離を取って哲学的かつ詩的に論じられている。また、訳者はそもそも政治学者であり、一応は文学を知っているのと、フランス語ができるために選ばれたのではないか。さらに、出版社によれば「大江的世界を演出するために(?)」として、白岡順の写真作品が挿入されている。最後に、この出版社はスピリチュアルや健康本(?)を多く扱っているところである[xv]。大江健三郎、ジャン・ルイ・シェフェール、訳者、白岡順、出版社…それぞれは互いに無関心なままで、他人を自分の内面や内へと引きこみ還元するような素振りもなく、この書物には依存や共犯の関係もない(「諸関係はその関係の項に対して外在的である[xvi]」)。登場する者たちが交わることなく平行なまま、あるいは、距離があり無関係なままで共存し制作されたこの書物は、それゆえに奇妙な集団的創造行為をもたらしている。
たがいに異質な諸部分の集合としての世界——終わりなきパッチワーク、あるいは乾いた石の数々でできた果てしない壁(セメントづけされた壁や何かパズルの破片といったものなら、一つの全体性を再構成してしまうだろう。)サンプリングとしての世界——サンプル(見本)とは、まさしく、通常のセリーから解放されているような特異性、注目すべき非-全体化可能な諸部分のことである。サンプルは、あるときは、空間の隔たりによって分離された諸部分の共存に応じたさまざまな事例であり、またあるときは、時間の隔たりによって分離された運動の諸相の継起に応じたさまざまな眺めである[xvii]。
それぞれの項が系列(セリー)としては無関係なままで横断的に関り、世界の新たな特異性をかいま見せるような創造性。それぞれはただ自分の営みと仕事をするだけなのだが、自分のやるべきことをやるだけでさまざまな分野や領域(文学、哲学や思想、詩的表現、批評、政治学、写真、宗教…)へと勝手に開かれてしまい、それぞれの〈外〉と関りをもってしまうのだ。
アレンジメントとしての本は、それ自体他のさまざまなアレンジメントと接続され…本というものは外によってしか、そして外においてしか存在しない。こうして本というものがそれ自体一個の小さな機械である以上…ものを書くときの唯一の問題は、文学機械が機能するためにはいかなる別な機械とつながれうるか、そしてつながれるべきかということなのだ[xviii]。
それぞれの登場人物や項のまさに「合間」において、誰のものでもない〈外〉において、本はさまざまな次元と接続することで新たな効果を発揮するのだ。アートブックもまた、分野の異なる無関係な人間が共存することによって、それぞれの自己から遠く離れた〈外〉へとつねに開いていく「場」になり得るだろう。そこでは、制作によって新たな「見ること」が創造され、批評によって新たな「言うこと」が発話される。この平行に自律した創造行為と言語行為によって、本は人間の経験を限定するために絡みあうこれまでの「言うこと」と「見ること」に対抗していく。
音声的イメージは、まさに断絶において、視覚的イメージとの断絶から生まれる。それは…同一の視聴覚的イメージに属する二つの自律的構成要素ですらなくて、視覚的イメージと音声的イメージという二つの「自己自律的」イメージなのであり、両者の間の断絶、間隙、非合理的切断をともなっている。…言語行為そのものが抵抗するのであり、言語行為が抵抗行為なのだ。言語行為に抵抗するものから言語行為を引きだすには、言語行為自体を、それを脅かすものに対する抵抗者とするしかない[xix]。
現代はSNSが全盛の時代であり、さまざまな立場の人にとってだけ都合の良い情報、他者の「言うこと」と「見ること」をコントロールしようとする、編集された言葉とイメージが溢れている。それに対して、他人の自由を奪うような「言うこと」と「見ること」に対抗できるものはあるのだろうか。たとえば、このような「情報に対抗するもの[contre-information[xx]]」の例としてあげられるのが、異なる空間としての力の〈外[xxi]〉といわれる、ミシェル・フーコーの『これはパイプではない』で有名なルネ・マグリットの《イメージの裏切り》と《二つの神秘》である[xxii]。《イメージの裏切り》は描かれたパイプの下に“Ceci n’est pas une pipe.(これはパイプではない)”とフランス語で書かれている。ここには三通りのイメージと言語、見ることと話すこと、可視的なものと言説的なものの関係があるとされている。問題となるのは「これはパイプではない」という「言表[énoncé]」の「これ[ceci]」である。ここには、どのようなイメージと言語の関係があるのだろうか。⑴「これ」は描かれたパイプの形を指すのだが、それは「パイプ」という言葉の形をしていないし、「パイプ」という言葉から構成されているわけではない。⑵あるいは、「これ」は言表自体(「これはパイプではない」)を指すのだが、それはあくまでただの言葉でしかなく、当然のようにパイプではない。⑶最後に、「これ」はイメージと言表の両方を指すのだが、イメージは実際のパイプではないし、言表もパイプではない。つまり、イメージと言語、見ることと話すこと、可視的なものと言説的なものは無関係なままで自律して形式化しているのだ。しかしながら、無関係ではあるのだが、なぜか「これはパイプではない」と(意味のあることを)言わないことによって、この絵画には分析できる三つの別の関係性が生じているのだ。普段ならば、何かを見てそれを言う、言葉や概念によって物事のあり方を限定してしまうのであり、見ることと話すことはどちらかが優位になってしまう。それに対して、この言表の言わないことの力が、無関係だったものの関係性をなぜか作ってしまうのだ(《二つの神秘》においては、この無関係な関係がさらに七つも生じる)。「思考することは、可視的なものと言表可能なものとを統一する美しい内面性に依存するのではない。思考は、間隙を穿ち、内面を圧し解体する一つの外の侵入によって実現されるのである[xxiii]。」この「情報に対抗するもの」は、自分の「内面」にもとづいて見たこと(から想像して)を考える、あるいは、言葉によって考える私たちに対して、これまで思考できなかった見ることと話すことの間にあるもの、普段の私たちの内面による思考の〈外〉を思考可能にしてくれるのだ。それは、見ることと話すことが、現在の自分においては、あるいは、それぞれの社会においてはどのように結びついているのか(経験の条件)を思考することにも繋がっていくであろう。そしてさらに、見ることと話すことの結びつきを動的に編成する(アレンジメント[agencement])ための方法をも見いだすことができる[xxiv]。
ひとつのアレンジメントは、脱領土化の複数の尖端をそなえており、同じことだが、それにはいつも逃走線があって、それによってアレンジメント自身が逃走し、自身を分解する言語行為や表現を逃走させる。同時に内容のほうも劣らず変形され変身し、逃走させられるのである[xxv]。
「これはパイプではない」はキャプション、つまり、「表現」であり、その「内容」はイメージであるはずなのだが、その二つは固定化されるどころか、関係は複雑になってゆき、つねに多様化されてしまう。優れたアーティストは「表現」と「内容」について、初めから成功することが分かりきった仕方で形式化するのではなく、より複雑になり、つねに他のものへと横断するような手法で創造行為を行うだろう。たとえば、ヨーゼフ・ボイスはたしかに政治的・社会的なアーティスであるのだが、「内容」については、概念や理念を自分で創造し他人のコピーなどしておらず、そして、「表現」についても、蜜蝋、脂肪、フェルトなどこれまで誰も用いなかった素材によって創造行為をしている。まさに、「社会彫刻」とは固定化されてしまう社会における表現-内容、言うこと-見ること、言語-イメージに対して、それらの変形と新たな形式化をもたらす刻みつけの行為であろう。彼が身体的パフォーマンスをしたのは、まさにそれが対抗的な言語行為としての「行為遂行的[performative[xxvi]]」なものだったからである。私たちが提起する「創造的平行論」という概念は、依存関係や共犯関係でしかない二元論に対して、平行関係を見いだして、固定化されてしまう「形式」を変形させて横断させていくものである。「創造的平行論」は、制作-批評、表現-内容、言うこと-見ること、言語-イメージなどのさまざまな平行関係にあるものを概念によって横断していき、「形式化」を固定することで他人の自由を奪うような「言うこと」と「見ること」をもたらすような者たち[xxvii]に対抗する、これまでの経験にとって〈外〉の思考と身体の身振りを創造する。優れたアートブックはテクスト(対抗的な言うこと)とイメージ(対抗的な見ること)によって構成されているが、両者の創造に共通するのがこの思考と身体の身振りである。私たちは自分自身によって、自由に(自らに由る[xxviii]:自己原因)「言うこと」と「見ること」[xxix]を創造することができるのであり、人間の経験はある条件によって限定されたものではなく、問う力によってそのつど新たな力能を引きだしていくことができる[xxx]。スピノザが言うように、私たちは人間の身体に何ができるかまだ何も知らないのだ。
自由とは、自らに由ることであり、経験を条件づけるものに対抗する超越論的な「自己原因」の創造である。
——こうして私たちはまたもう一度新たな人間の思考と身体の経験を創造することができる。これが、どんな時でも私たちが人間の未来を諦めることができない理由である。
参考文献
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Gilles Deleuze, L'image-temps. Cinéma 2, Les Éditions de Minuit, 1985.=C2
ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ、『カフカ』、宇野邦一訳、河出書房新社、2017年
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ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ、『哲学とは何か』、財津理訳、河出文庫、2012年
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ジル・ドゥルーズ、『フランシス・ベーコン 感覚の論理学』、宇野邦一訳、河出書房新社、2016年
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ジル・ドゥルーズ、『フーコー』、宇野邦一訳、河出文庫、2007 年
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ジル・ドゥルーズ、『記号と事件』、宮林寛訳、河出文庫、2007年
ルイ・イェルムスレウ、『言語理論序説』、林栄一訳、ゆまに書房、1998年
Louis Hjelmslev, Prolegomena to a Theory of Language, Translated by Francis J. Whitfield, University of Wisconsin Press, 1969.
スピノザ、『エチカ』、畠中尚志訳、岩波文庫、2005年
[i] Deleuze, QQP, p.36/日本語では、p.63 このテクストは二流の概念をばら撒くようになった(自称)ドゥルーズ主義者たちへの強い批判でもある。とくに、「生成変化[devenir]」という概念が、むしろ、「可愛い〈私〉が維持されてちょっとだけ変化すること」への共感と同情に置き換えられたのは絶対に許してはいけない事態である。
[ii] スピノザ、p.172
[iii] ドゥルーズ、『記号と事件』、p.121
[iv] Deleuze, QQP, p.36/日本語では、p.62
[v] このテクストでは主要な概念について逐一説明することは割愛させていただく。それぞれの概念については、拙著『純粋贈与のための身振り』の註を参照していただきたい。
[vi] 管見の限りでは、「creative parallelism」についてはGeert Brône&Bert Obenの“Resonating humour : A corpus-based approach to creative parallelism in discourse”という論文があるが、私たちの概念は文法的なパラレル、認知的・コーパス言語学とは無縁である。それらは経験的な次元にしかなく、諸項を中心とした内在的な関係しか扱えない。「創造的平行論」においては、諸項がまったく無関係であることによって、逆に、それぞれが狭い経験を抜けでて、新たな経験をもたらす〈外〉へとつねに「生成変化」していく。このテクストはそのために言語そのものを問うだろう。
[vii] 蓮實批判の急先鋒である某氏は、貴重な映画が一度しか観られなかった時代とは異なり、DVDを一旦停止すればいいので、蓮實の「動体視力」など時代遅れであると述べている。あるシンポジウムにおけるその某氏の発表は、「ハイブリッド」を連呼してさまざまな映画にハイブリッドなものが現れてきているとのことだった(ゴジラなど)が、作品そのものを一切論じずに、自分が恣意的に「ハイブリッド」なものが出てくる作品を選んでいるくせに、哲学や思想をコピーして批評したように見せかけるその態度は非常に不誠実だと言っておく。某氏にはDVDを一旦停止したところで、蓮實が重視する、「誰もが見落としてしまう作品のよさを指摘すること」など永久にできないことは確かである。DVDを一旦停止した結果が、誰かが言ったことを右から左にコピーして、〈私〉のために何か言ったかのように見せかけるアリバイ作りをすることなのか。某氏は映画を再生できず、一旦停止することしかできないのだろう。つまり、「内容」:作品と無関係なことを言うこと、「表現」:見せかけだけの何か言ってる感を必死になってだすこと、そして、どちらも「DVDの一旦停止」によって形式化されている。
[viii] この独特の書物には世界で唯一「。」が一度しか登場せず、300頁に渡って「、」で繋げた一文で構成されている。
[ix] Deleuze & Guattari, MP, p.58/日本語では、p.100
[x] Hjelmslev, p.50/日本語では、p.37
[xi] Hjelmslev, p.57/日本語では、p.40
[xii] 拙論「新たな形式主義によるアートの「プログラム」 : 富田菜摘《スクラップ・ワールド》展」を参照。富田氏のように優れたアーティストは排他的な「内容」と「表現」の形式化よりも、つねにその形式化が開いていき、別のものへと横断するような手法を取る。
[xiii] 作品を外部へと結びつけて論じることはまさに〈私〉の体験にすがりつくことである。それに対して、作品の表層はまさに作品そのものを経験することであり、経験そのものの記述である(純粋経験)。後述の〈外〉はそれに対して、私たちの社会における経験の条件を構成するものを抜けでることであり、条件の中で思考と経験をするのではなく、条件に依存することなく対抗的な思考と身体の身振りを創造することである。
[xiv] Deleuze, FB, p. 86/日本語では、pp. 122-123
[xv] 小谷野敦氏のレビュー参照。
[xvi] Deleuze, CC, p. 78/日本語では、p.123
[xvii] Deleuze, CC, pp. 76-77/日本語では、p.121
[xviii] Deleuze & Guattari, MP, p.10/日本語では、p.16
[xix] Deleuze, C2, pp. 327-331/日本語では、pp.345-350
[xx] ジル・ドゥルーズ、「創造行為とは何か」参照。
[xxi] Deleuze, F, p. 93/日本語では、p.161
[xxii] 拙論、“The ‘Diagram’ as the Audio-Visual Image”参照。
[xxiii] Deleuze, F, p. 93/日本語では、p.161
[xxiv] このレベルまで思考を展開させることができた者だけが、やっと「生成変化」について述べることができる。
[xxv] Deleuze & Guattari, K, p.84/日本語では、p.175
[xxvi] ただの「行為遂行的」言語行為ではなく、対抗的な「行為遂行的」言語行為については、拙論『純粋贈与のための身振り』の全体を通じて表現されており、参照されたい。
[xxvii] (自称)ドゥルーズ主義者たちは、ドゥルーズがやってはいけないとしていたことを、〈私〉の利益のために平気でやり、「言うこと」と「見ること」をむしろ積極的に限定しようとする。彼らは、現代の小林秀雄主義者である。
[xxviii] 自らに由るを、決してただの「自分から」と解釈しないように。それはデカルト以下であり、彼が批判したように身体は機械的な因果律に左右されているのであり、他人や物理的な因果にしたがっているのを自分が原因であると誤謬しているに過ぎない。あるいは、彼が言うように、意志の範囲を知性まで限ることは、できないことまで意志することに振り回されることから逃れて、初めて自らによって行為をすることができるのだ。それに対して、「超越論的経験論[empirisme transcendantal]」の自由とは、自分を条件づけてしまうすべて(経験を規定する超越論的な条件)を把握して、条件そのものを経験可能にし、それらに対抗する身体の行為をすることである。哲学が芸術を必要としているのは、哲学は超越論的な条件を思考することはできるが、「条件そのものを経験可能」にすることはできないからであり、それが唯一可能なのが芸術だからである。
[xxix] 「言うこと」と「見ること」を限定しようとする者や情報に対抗する身振りをする身体、それは人間の新たな経験を引きだす「身体の身体」であり、通常の目と口というつねに条件づけられているもの(器官)から逃れた「器官なき身体[corps sans organes]」である。
[xxx] これが「超越論的経験論」の意義である。書くことは他者への純粋贈与であり、〈私〉の利益の追求ではない。
©Hiroya Shimoyama. All rights reserved. 2025年2月15日