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影と面影 うつとうつわ

井嶋りゅうの「影」を読んでいて
石川啄木の「面影」を思い出した
啄木は盛岡の人である
井嶋りゅうは津軽
影の表に面影がある

東北の言葉が張り付いている 朗読をすると亡霊たちがいっせいに放たれる その重く暗い渦巻くもの 太宰や宗像のあれ
大阪の友達は
「なんだか違う言葉」と言った

吉増剛造は言葉に張り付いている古い記憶を剥がそうとして宮城県の石巻で「イ(i)の樹木(き)の君が立って来ていたイノキノキミガタッテキテイタ」とうたった。
江戸の人剛造は、イタコに会いに行く。
根の国に降りようとする。
シニフィアンをシニフェから自由にしてやろうと詩人は躍起になる。
そして迷宮に入っていく。
見てはいけないものを見てしまう。

そこには音だけが漂っていて 
滑っていて
なすすべがない
その
なすすべがない様子を「うつ空」と呼び
鬱になる
歌になる
人は器を作った
詩人はウツケになる
虚ろな詩を書く
概念の器が飛来する
それは円盤の形状をしている
鋭い光線を大地に撃つ
打つ 鬱 うつ
ほらまた溢れた
形とイメージの往復運動

剛造のVoixという詩集のVが
Vサインに見えた
詩人がニヤッと笑っている

徒然ついでに

「ああ、この一行の出現を待って、三年、十年、あるいはわたくしは生涯をすごして来ていたのだという、感慨がございました」

とこの詩人は断言する
本当かよ
と僕は思う

この根拠なき断言に、私たちは絡め取られる、
ネノネと詩人は言う
言ったもん勝ちだ
その勝利宣言がVか
憑依されていく     

何度も反芻するうちに
それはエクリとなっていく

新たな言語が生成されていくというのは、そういうことなのだろう
それはイエス・キリストのようなものだ
イエスが実存したかどうかはあまり重要ではない
それは聖徳・太子も同様だ
イノキノキミが、イエスキリストだと喝破した若い学者がいると剛造は話していた
僕はここで広瀬大志の「毒猫」を思い出した
イエスの真逆にある毒猫

剛造に戻る

「白い雲か煙の筋か精のようなものの姿に添うようにして、詩集に喩が、未知の心の芯のようなものが登場をして来ていた」

「英語の“gh”(無音=サイレント)の小脇の吐声のようなもの」

「背後に隠れている、小さな妖精のような“i”からの信号(“しるし”のようなもの)」

「そしてこの“芯=core”は、W・B・イェイツの“心の芯=heart core”の掠れたような小声からとどいているものでもあったのだ」

もう引き戻せないところまで来てしまったようだ
ありがとう 田代裕基さん
ようこそ迷宮へ

 

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