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迷走しても、いいんじゃない?

「いいんじゃない?」

その言葉は、自分にも言えていないと、きっと言えない。

私から見れば、山下先生の人生は迷走ではなくて、目の前に現れた課題に、自分にできる行動と選択で取り組んできた逞しい歩みだ。

そして、人生に迷走しているのは、私だ。

1.コスモス村へ行く

私は2019年3月に15年勤めた仕事を辞めて無職になり、それこそ迷走中だった。Yさんにコスモス村の研修を勧めてもらい、修復的対話も、山下先生についても、ほぼ何も知らないまま、2019年5月に長野県を訪れた。無知な私を穏やかに受け入れてくれた山下先生と、縁あって共に学んだ受講者の皆さまに感謝しています。

ぎりぎり読み終える。

修復的対話とコスモス村の山下先生について、知ったのは4月末。
まさか約半月後、コスモス村へ行けるとは。

コスモス村で行われている修復的対話講座の空きは、今年の11月までなかったので、11月は何しているか不明だし、申し込めないなぁとあきらめていたところ、5月の講座に急なキャンセルが出て、これは何かの縁と、申し込んだのが5月9日。明日から、コスモス村へ行ってきます。

申込み欄に、所属が必須項目で、無職なのでどーしようと困ったけど、NPO茨城居場所研究会(https://www.facebook.com/ibaibaken/)の所属として参加することに。すでに居場所の活動日があったのに、快く研修に送り出してくれた理事長にも感謝です。

修復的対話とオープンダイアローグ。似ているところと、異なるところ。生きているあいだ、いつでもどこでも対話はつづく。よりよく生きるために、学んできます。

日記(2019年5月17日)

「いじめ・損なわれた関係を築きなおす
修復的対話というアプローチ
(山下英三郎:著/学苑社/2010)」
コスモス村
クリス村長

コスモス村に咲いていた花は、とても自然に咲いているように見えたけれど、数年に渡る試行錯誤の賜物だったのだと「迷走ソーシャルワークのラプソディ」を読んで知った。

修復的対話について学んだ後、日記にこう書いていた。

【修復的対話】は、対立や葛藤、対人トラブルの「予防」と「軽減」を目的とした方法。

一方的な解決策を強要されることなく、対立する人が、それぞれの思いや希望を表明し、その中から最善な解決策を作り上げる。一度で問題を解決することが目的ではなく、対話によって、問題を少しでも「軽減」することを目指す。

対立する当事者同士(加害者と被害者など)を対面させることに、抵抗と心配を感じていたけど、お互いに対話をする意思と準備ができている場合に行われ、参加は強要されない。参加者の安全が確保されなければ修復的対話は行えない。山下先生も、二次被害を生むことは避けなければならないし、ファシリテーターの経験不足から、参加者が傷付くことはあってはいけないので、なかなか対立場面での修復的対話(コンファレンス)の実行は難しいし、慎重でなければならないと話していて、安心した。

「コンファレンス(対立関係にある人たちの関係修復を目的とする)」は難しいけれど、「RJサークル(関係を作り、対立の予防を目的とする)」なら、安全に行いやすい。

コンファレンスでも、サークルでも、
基本的なルールは4つ。
★お互いを尊重する。
★相手の話をよく聞く。
★相手を非難しない。
★発言しなくてもいい。

この4つは、気持ちよく人と付き合う為にも必要なルール。みんなでこのルールを身につけたら、大きな問題は起こりにくいと思う。

対話は「予防」にもなる、という点が好きだ。

それぞれが安全に話せて、意見を尊重される体験することによって、対話的な思考や振る舞いが、(構造化された対話場面のみの態度ではなくなって)人の基本的な能力として身についたら、もし、対立が起きても、早い段階で対話による解決が見込めるようになる。それは、平和で調和のとれた集団や社会を作る事につながる。きっと、居心地が良いと思う。

今回、修復的対話について教えてくださった山下先生自身が対話的な存在で、とても素敵だった。

人が対話的な態度でいるには、思考も大事だけど、まずは基本的な欲求(食欲、睡眠、安全など)が満たされることが大切で、コスモス村には、それらが揃っていた。さらに、豊かな自然や、クリス村長の存在が、私にはとても魅力的だった。今回、コスモス村に行く事ができた幸運と、コスモス村へ導いてくれた方達に感謝しています。ありがとうございます!

日記(2019年5月21日)
コスモス村の美味しい食事と、クリス村長

2.コスモス村、ふたたび

2019年11月、山下先生とクリス村長に会いに、ふたたびコスモス村へ。

コスモス村へ行ってきました!修復的対話講座を受講したのは、今年の5月。今回は、11/2〜11/3に修復的対話フォローアップ研修を受けてきました。山下先生とクリス村長に会えた時点で、私の目的は8割達成。

今回の修復的対話フォローアップ研修で、私のなかに残った言葉は「相手の語ることのなかに、ニーズが含まれている。」

当然のことだけど。
それでも、改めて、そうだよなと思った。

無視されていい言葉はない。
無視されていい人もいない。

もちろん、相手を傷つけるような言葉は暴力だし、対話の場では禁止されている。

安心して話せる場は、安全な場。安全な場や、安全な人間関係を経験することは、誰にとっても支えとなりうる。

話すことを尊重され、聴いてもらえるのは、その場に受け入れられているということ。自分の言葉に関心を持ってもらえることは、自分が存在していることを認めてもらえていると同時に、自分も自分の存在を実感できる。そして、単純にうれしい。

ニーズを知ることは、より良い対話や支援のために大切。本人の言葉のなかに、必要な情報がある。自分のことを、他の人に勝手に決められたら、嫌だ。

すべての人の言葉(語られない言葉も含む)を大切にし、沈黙することも選べ、参加者の関係は平らで平等で、すべての人が尊重される対話の場。その場にいるだけで、ほっとする。それだけでも、対話をする価値がある。対話をするために、対話する。

今回は、山下先生の手料理をご馳走になり、とても美味しくいただきました!私はきのこ類が苦手なんですが、きのこスープが出る。勇気をだして飲む。美味しい。スープにはとろみが。なんと、なめこのとろみ…!一瞬怯みつつ、他にもたくさんのきのこがどっさり入ったきのこスープ。残さず全部食べました。人生初なめこ。自分を褒めたいと思います。

修復的対話について学ぶだけでなく、まっくらな場所へ星空を観に行ったり、宇宙やスピリチュアルの話をしたり、みなさんの37歳のエピソードを聴いたり、クリス村長と早朝の散歩をしながら紅葉を楽しんだり、そういった時間がとても豊かでした。参加して良かったです\(^o^)/

日記(2019年11月3日)

3.子どもの居場所

その後、2020年に沖縄へ移住し、子どもの居場所で働いた時にも、山下先生の本に学び、支えられた。

居場所に、来ようと思っていてもなかなか来れない子に、居場所でできることや、タイムスケジュールを先に伝えることは、見通しを持てることで、その子の安心につながる良い面はある。だけど、なにもしなくてもいい場所なのにな、ともやもやしていた。

「居場所とスクールソーシャルワーク(西野博之・山下英三郎:著/子どもの風出版会/2018年)」を読む。

退屈は大切。退屈から新しいことが生まれる。
動き出す前の大事な時間。
なにもしないは、何もしないわけではない。

こどもの声を聴くとは、こどもが発言しやすい環境をつくること。こどもはSOSが出しにくい。そばにいるおとなが、それに気づく。

「人の行動というのは、環境との関係の中で生じる。」

個人の問題ではなく、環境の影響をみる。
こどもの権利。
安心して失敗できる場所になる。
遊びは学び。
子どもを支えるには、親を支える。
暮らしを取り戻す。
作る、食べる。食べることは、生きること。
作って、食べる。それだけで元気になる。

「大人がよかれと思って、いろいろ大きなお世話を焼かないで。私たちはホッとしたいんだ。」

ほんと、そうだよね。
ホッとできる空間って、どんなだろ。

私だったら、会いたい人がいて、
自分の場所があるといいな。

他には、遊べるとか、ごはんが食べられるとか、
嫌なことを言われない、とかもあるかも。

何かができるから、来るんじゃない。

まずは、人に安心してもらって、
次に場所に安心してもらう。

だから、会いに行くんだ。

こんな私でも大丈夫。
そう思えたら、生きていける。

「生きているだけでOKだよね」

というまなざしを手に入れること。

「子どもの命をまんなかに置いて、君が生まれてきたこと、今生きているだけで尊いこと、すごいことなんだということを伝えていく。子どもは、ご飯をいっしょにつくって食べているだけで元気になる。ご飯づくりを通して暮らしを取り戻して、「大丈夫だ」という大人のまなざしに見守られて、そこでいっしょに遊び、活動し、食べて、ゆったりと休息をとれば、あとは子どもが勝手に歩き出す。」

私ができること。
それは、ほとんど何もないことを自覚する。
そんな、変なおばさんになること。

日記(2020年8月26日)
「居場所とスクールソーシャルワーク
(西野博之・山下英三郎:著/子どもの風出版会/2018年)」

4.いいんじゃない?

2024年、また無職になってしまった。
私は、あいかわらず迷走人生を歩んでいる。

山下先生の生き方は、
私にも「いいんじゃない?」と言ってくれている。

私も自分に「いいんじゃない?」と言おう。
そう言えるからこそ、また立ち上がろうと思える。

うまくいかない時があっても、生きている。
それは、自分ひとりで生きているわけじゃないということ。

人生、何が起きるか分からない。

それでも、その時の最善を尽くしたり、怠けてみたり、どんな生き方でも、いいじゃないかと自分自身を許せたら。誰かが困っていたり、悩んでいたり、自信を失っていても、「いいんじゃない?」と言えるようになるんだろうな。

大事なのは、言葉よりも、行動。

「いいんじゃない?」と言ってくれる人自身が、迷走する事もあるけれど、自分で自分の人生を決めて行動していれば、信頼できる。どんな生き方を選んでも、自分で決めて行動すれば、人生は大丈夫だという生きた証拠となるから。その人の生きざまが、相手に伝わる。

子どもが自分で考えて決めたことで、明らかにいい結果に結びつかないと思えるようなケースもあった。だが、僕はそういう時でもたいてい「いいんじゃない?」と伝えた。そして、実際にうまくいかなかったこともあった。それでも、それでいいと思った。自分で考えたことを実際に行動に移してみて、たとえうまくいかなかったとしても、何もしなかったことに比べればはるかに学ぶことがあると思ったし、失敗経験をすることも大切なことだと考えていたので、事前に行動に歯止めをかけるようなことはしなかった。ただし、彼らの決断についてはいくつかの選択肢を示し、その中にあるリスクも説明するようにはしていた。リスクを分かったうえで、決断を下したのであれば、それは尊重するしかなかった。そして、万が一失敗した時にどうサポートするかというのが僕の役割だと考えていた。

「パートⅢ 途上にて」より引用

「いいんじゃない?」は、無責任な言葉ではない。

相手が、自分で決めたことを応援すること。やりたい気持ちや、その答えを導き出した事に敬意を表し、尊重すること。挑戦した事がない人は、挑戦者を笑うらしい。何かをする時に、リスクがあれば止める。それは、堅実に生きる術でもあるし、以前の私はそれを美徳としていたくらいだ。でも、今は、ちょっと違う。上手くいかない事もあったけど、沖縄移住に挑戦して良かったから。私も、挑戦を応援する人になりたい。

やってみて、もし失敗したら、その時にサポートする。

上手くいかなかった時に、「だから言ったじゃない」とか「自分でやったことだから、しょうがないよね」という自己責任に帰させるような態度ではなく、次にまた立ち上がることができるようにサポートする事が大切なのだ。

「パートⅢ 途上にて」より引用

サポートするという覚悟が決まっているからこそ、言える言葉でもある。失敗しても見捨てないという覚悟が「いいんじゃない?」の後ろにあるからこそ、相手は心強いし、勇気づけられる。

子どもだけでなく、親や先生などの大人、そして、現在、迷走中の私にも、これらの言葉や態度は、支えとなる。何度でも立ち上がれるように、サポートし合える仲間と生きていきたいし、私もそういう人でいたい。

さて、ここから、どうする?

この本の裏表紙には、こう書いてあった。

「道草をすると、新たな景色が見えてくる」

道草しながら、生きていこう。どんな道も、いいんじゃない?

「迷走ソーシャルワーカーのラプソディ
どんなときでも、「いいんじゃない?」と僕は言う
(山下英三郎:著/明石書店/2023年)」

【コスモス村の講座については、こちらをご覧ください。】

クリス村長の写真が付いた「コスモス村 村民証明書」を、今も大切に保管しています。

おわり

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