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古典に心を洗う
今日のおすすめの一冊は、藤尾秀昭氏の『小さな人生論』(致知出版社)です。その中から「自分のできることを徹底する」という題でブログを書きました。
本書の中に「古典に心を洗う」という心に響く文章がありました。
つい三十年ほど前の日本にも、そこに存在するだけで人格的迫力を感じさせる、大人の風格を備えた経営者 がたくさんいた。 石坂泰三、土光敏夫、桜田武・・・。 あの人たちの大きさはどこからきたのか。
たとえば石坂泰三の場合である。 石坂は学生時代、シェークスピア、テニスン、エマーソン、カーライ ル、ゲーテ、シラー、アンデルセンをすべて原書で読み、『古事記』『日本書紀』『祝詞(のりと)』『万葉集』『古今集』を渉猟(しょうりょう)している。
そればかりではない。経団連会長として秒刻みの仕事をこなす中で、昭和三十七年、七十六歳のときにある試みに挑戦した。子どものころに学んだ古典の筆写を始めたのだ。
画仙紙を和綴じにした筆写帳(ひっしゃちょう)に筆で 「大学」「中庸」「論語」「菜根譚」「古文真宝(こぶんしんぽう)』、そして『万葉集』 『徒然草」を写し終えたのは昭和四十年。 石坂は七十九歳になっていた。
石坂は言っている。 「僕の場合、古典は年とともに自分の人間形成に欠くべからざるものになった。いろいろな場面で精神生活の大きな拠り所になった。実社会の生活にも大きく役立った」
幼いころから培った古典の教養。実社会の経験を積む中でそれを咀嚼し、己の実学としていった努力。そのたゆみない蓄積が厚みのある品格となって溢れだし、石坂を大きな存在にしたのである。
「最近は年輪を刻むように年を取る人が少なくなった」と言ったのは小林秀雄だが、年輪を刻むどころか、肉体的年齢はおとなだが精神的年齢は子どものままといった人がめっきり増えた。憂うべきことである。
古典に親しみ、古典に心を洗う。その習慣を取り戻さなければならない。熟成したおとなの人格の涵養(かんよう)のために。
◆現代の我々が学ばなければならない筆頭に、「AI」や「chatGPT」等のデジタル知識がある。同時に、現代を生き抜くための最新情報を取得したり、様々な仕事関連の知識がある。しかし、それも大事だが、本当はもっと根本的に大切なことがある。
それが、「人間学」という徳性を養う学問だ。人格を磨き人間力を高める学びだ。その元は古典にある。古典によって自分の心を磨き、洗うことだ。どんなに知識があろうとも、人間的に劣っていたら、そのメッキはすぐにはがれてしまう。
人間が評価されるのは、その人の人間力がどれだけあるか、という一点だ。
「古典に心を洗う」という言葉を胸に刻みたい。
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