#26 昭和や令和という時代ではなく、あるのは生きる人々どうしの埋まらない、歩み寄れない価値観の差
おはようございます、こんにちは、こんばんは。
サラリーマンをしている時は特に耳に入ってきました。
ひと周りふた周り年齢差のある人と交流が職場内外にあると、年下の子や、新人担当などで意思疎通がうまくいっていないことを感じている人は少なくはないでしょう。
「昭和の考えなのかな」や、「今時の子はこういう思考なのか」とジェネレーションギャップを言葉に変えて、口からこぼれていく場面を見たことがあります。
特に、前者の「昭和の考え」という言葉は、目上の人からよく聞いた覚えがありました。
では、昭和の考え方とは、何か、
満員電車に1時間揺られる間や、ホルモンを焼いている時間に考えるにはうってつけの議題でした。
昭和人間のトリセツ~厄介な自分や周囲との付き合い方
という記事があるように、「昭和の考え」は厄介とされています。
しかし、そこまで複雑ではないと思います。
そもそも昭和の人間や考えというのは俗称で、
ひとくくりにできるものではありません。
自分だけではなく、互いに、互いの価値観に歩み寄れないのであれば、
令和だろうと、平成だろうと変わりません。
古い人間なのではないでしょうか。
私は、議論し、考え、これを一つの回答としました。
人が成人し、40代になるまでの時間で、世界初の持ち運びケータイをiPhoneにまで進化させることができるのです。
だから、人の考え方は、どうしても更新されず、古くなったセメントを取り替えることも、工事することもないのです。
衝撃的な事件や事故といった体験価値が起きない限り、
時間経過とともに、上からセメントが、バランスを考えず蓄積だけしていきます。
セメントが固まっても、見せかけだけで、すぐにヒビが入り、非常に歩きづらい道路になっていくのだと思います。
例えば、新しくAさんが入社しました。
すぐに上司Bさんがついて、会社のルールだけではなく、実際の仕事について独り立ちができるように教わったとします。
ただ3ヶ月たっても、その仕事において必要な技術が身に付かず、直近2年以内に入った他の社員なら終わっている研修も終わっていないということでした。
困った上司のBさんは、Aさんと面談します。
ただ、Aさんは自身は頑張っている。
困っていることはないとのことです。
それを聞いたBさんは、内心驚きました。
Bさんより上司の方から詰められていました。
人件費や人手不足など、利益率も見なくてはなりませんし、管理側としては急がなくてはなりません。
BさんはAさんに「少し、実践・研修を見直して、スピードもあげていこう」伝えます。
こういった場面は、あながち特別な進行状況ではないかなと考えます。
ただ、どう人を見ているかによって、詳細や文言はだいぶ変わるのではないでしょうか。
このままでは、Aさんは覚醒し、バリバリに仕事をこなせる人材になる可能性もありますが、Bさんについていけず疲れてしまう可能性もあります。
反対にBさんがAさんの振る舞いに気が立って、先に疲れてしまうことも考えられます。
うまくことが運んでいけばよいのですが、Aさんが辞職を希望するとなった場合は、評価に響くことでしょう。
とある書籍からの引用です。
昔の記憶でタイトルを思い出せませんが、すこし語彙が違うかもしれませんが、こんな言葉でした。
「優秀な教師がいても、その授業は満たされない。優秀な生徒もいて初めて、その授業は満たされる」
教え方や伝え方は、教師が10人いれば10人違いますし、生徒も30人いれば、30人考え方や得意不得意があるわけです。どうすれば、まんべんなく理解が行き渡るか、試行錯誤が必要です。
しかし、教わる側もその姿勢が、生徒それぞれが解釈し、飲み込むための工夫を凝らさなければ、意味がないということです。
また、どうしても数を見ないといけないことが当たり前になってくると、
それだけ比重が嵩むので、理解と伝達の平均をとり、自分の中で型崩れしにくいスタイルを維持することで、ストレス軽減を図ろうとします。
場所が変わっても、会社だろうと、セミナーだろうと、変わらないはずです。
この例では、マンツーマンですが、
Bさんは、Aさんの仕事のスタイルをどう捉えて分析し、また気づかせているか。
またAさんは、自身の仕事のスタイルと社内のスタイルとの差に気づいて、改善の取り組みをしているか。
両者が互いに手を取り合わなければ、この新人研修というプログラムは完了まで、ますます遠のいてしまいます。
デスノートの八神月のように、自分を変えるということは、いつになく難しいテーマとさえ感じています。そう簡単に変われない方が多いからこそ、人なのではないでしょうか。
話は変わりますが、
日本のドラマは特に、先生を責め立てる親が当たり前に登場してきます。
年々、笑えなくなってきました。パワーバランスがどこかおかしいと。
「不適切にもほどがある」というドラマは1話でみるのをやめました。
ブラックユーモアに富んだ素晴らしい作品で、あらゆるメディアで取り上げられるほど、素晴らしい作品であるということは前提です。
あくまでも私の感想ではありますが、見続けるのがしんどいと感じたからです。
この作品は、タイムスリップを皮切りに、主人公の教師を演じる阿部サダヲが、令和の学校で、自分の指導方法が体罰と非難されたりと、ジェネレーションギャップに奮闘するというものでした。
TVなどで取り上げられる視聴者の感想を見ていると、
40代の方々は特に、「これが普通やったんやで」と笑って、
20代より下の世代は、あっけらかんと、まるで不思議体験を見て笑って面白く楽しんでいるという印象を受けました。
ただ、この構図は、いじめられていた側がいじめる側になって、側で見て
、といじめの場面を見ている気がしてなりませんでした。
ブラックユーモアとは、感情移入の線引きを間違えると、ここまでエンタメとして楽しむことが難しいのかと痛感しました。
感情移入しがちな私の癖の悪い面ですね。
ですが、文化が違えば、Netflixの「ブラックミラー」はまだ見れます。
不思議なものです。
親を説教する教師もまた、 小渕恵三官房長官が記者会見室で、「平成」と墨で書かれた生乾きの2文字を掲げた時をもって「昭和の考え」となったかもしれません。
読み返すと、耳が痛くなることを書いており、心苦しい気持ちです。自分自身もどこか、何が世間体で、何がマナーでとか、何が当たり前だとかことあるごとに悩んでしまいます。
その度に、選んでしまう「安牌」のなかには、古い価値観があったかもしれません。
ですが、行き詰まったり、人の言動に疑問が湧いた時、徹底的に友人と議論ができたので、これも非常に有意義でした。
最後まで、お読みいただきありがとうございました。
追記
下に#タグが記入時から存在しているのだけれども、大丈夫なのか。