【創作】フランシスコ会修道士ロレンスの手記①/シェイクスピア「ロミオとジュリエット」より
フランシスコ会修道士ロレンスの手記
1
あの輝ける若い二人が死んで、もう三年になる。二人だけではない、パリスもマキューシオも、ティボルトも死んだのだ。
以来、ヴェローナの人の心を埋め尽くした悲しみと苦しみはどれほどのものであったろうか。若人が死に、老人はより老いさらばえていく。花の都ヴェローナ fair Verona と呼ばれるが、本当であろうか。ローマ帝国より続くアレーナ、由緒歴史ある教会、均整あるエルベ広場を有して美麗なる街並みを誇っても、未来をたずさえて今を生き抜く若き生命がこの街中を走りまわっていなければ、美称や名声などに一体なんの価値があるというのか。緑のアディジェ川は何も答えてはくれない。
二人の死を慰めようとし、あるいはこの悲嘆事をどうにか理解しようとして、あるいはこれを機に一儲けさえしようと、いくつもの噂話や口承伝聞が広まり戯曲脚本が生まれ、その異種異本の数もかぞえきれないくらいである。じつに多くの街で演じられたともいう。私はそれらを極力耳に入れず、眼に触れさせず、人とも話さないという生活を続けようとしたが、長くはもたなかった。同志の修道士が善き心から教えてくれる場合もあれば、これ見よがしに聞こえるように話す輩もいたし、件の脚本を粗末な我が庵に投げ込む者さえいたのだ。心をかきむしられるとしても、それらを知ることは我が務めであるとも思い直した。
いまあの二人が睦まじく、天の国と呼ばれる我知らぬ場所で微笑み合っている気がする。ああ…だが同時に、深い黒い夜のなかで真っ白い顔で召命されてしまった静かな二人の顔が思い出されてくるようだ。
しかし、受動的に感傷にひたるは定義上罪悪である。精神を立て、意志をもって現実に直面し続けるが、人として生まれたるものの義務であろう。
手許の資料と我が記憶をたよりにして、誰人も読むことのないこの紙片に、記すべきことを記しておこうと思う。愚考を重ねるだけに終わるであろうが、毒草から薬効を得るように、振り絞った一滴にはもしかしたら何かよきものが含まれているかも知れないのであるから。
2
ヴェローナ大公エスカラス公爵はもとより令名高く、峻厳でありながら心の機微を弁えておられた。モンタギューとキャピュレット、積年の憎しみから何度も騒動を起こす両家へ厳しい視線こそとっていたが、ときに寛大なご処置であった。ただ、大公の処置処分の内容、軽重などには、じつは隠された意図があったはずであると私は見ていた。
モンタギュー家もキャピュレット家も、この街において最大級の勢力をもつ権勢家門である。当主達がヴェローナの評議員に何度も選ばれてきたことは言うまでもない。それぞれ市内中心部に堅牢な屋敷を構え、家令や使用人、侍従や馬丁を多数抱え、当市城壁の外には広大な農地と農奴を有す。高名なる有力者やその子弟との濃密な交流関係のみならず、複雑な縁戚関係をも広げて、その網の目を見極めることができないほどであった。
つまり、両家はこのヴェローナを支える二つの柱なのである。ダイヤを高く柱頭に支えるには鋭く強靭な爪が必要なのだ、その爪がいかに汚れていても。
これを大公はよく見抜いておられた。しかしその洞察にこそ、問題も含まれていた。
誇るべきことにヴェローナの統治は法に基づくと内外に宣明し、その大権は大公に属した。自身、「怒れる大公の宣告を聞くがよい」と仰ったように。
ところが、両家が引き起こす街中を悩ました武装騒乱を、大公は何度も見逃した。正確には、法的ご処置のたびに軽微な処分で済ませた。「互ひにたわいもない言葉尻を捉えての三たびの諍ひ」である。当の者を厳罰に処し、両家に監督責任を問い、権勢勢力の分割処分にまで踏み込むこともできたはず。しかし大公はしなかった。威厳をもって睨みつけ、街中に響くかのように両家を叱り飛ばしながら、処置は穏便を旨とした。大公は危険というものをよく知っていた。厳正厳罰を加えて両家から反撃を得ることをではない、両家の力が弱まってしまうことをである。
両家からの反撃は言ってみれば反逆である。その場合大公からすれば、ヴェローナ内外の勢力から助力を得れば、大義ある自身の優勢は微動だにしない。問題は両家がその勢力を失い、あるいは一方がその力を失ってバランスを失することである。この場合、発生する事態が大公の予想を超える。予期できない世界に踏み込むことになる。他勢力の台頭である。キャピュレット家もモンタギュー家も問題だらけであり、ヴェローナ市中をたびたび騒擾の場にしてきた。しかし限度もあった。乱暴であったが悪辣さはなかった。しかし新勢力がそうである保証はない。未知の危険物より既知の危険物の方がはるかにましなのだ。
いつかの時点で、両家の配下どもの抗争騒乱を捉えて、法を厳密に適用し、果断な処分を大公が下していれば、両家対立は終止符を打っていたであろう。そうであれば、荒ぶるティボルトの剣が、マキューシオの命を奪うこともなかったであろう。マキューシオの死がなければ、どうしてロミオがティボルトを刺す理由が生じようか。大公の洞察はその鋭きがゆえに、今般の悲劇の舞台を用意してしまったのではなかろうか。
大公はすべてが生じた後、もちろん過ちを認めた。「そしてこの身も、お前達の不和を見逃してゐた為に、身内を二人までも失ってしまった」と。
3
マキューシオのことを想い出すと、涙を感じるとともについ笑顔になってしまうのは不思議なことである。街中ですれ違うたびに、彼は軽口をたたいて私を言葉で遊んでおもちゃにしていた。そこに含まれるエスプリが、卑俗な言葉遣いの奥に知性を感じさせ、どうしても笑い出さずにはおれなかった。放蕩息子のようにふらふらとして、どの家にもどの酒場にも出入りし、ロミオと親しく友愛を結びながら、同時にキャピュレット家側にも知人を持っていた。エスカラス公爵の親戚であったため、比較的自由で鷹揚な生活ができたのであろう。その余裕こそ彼の知性をじっくり育んだ。その発露はいつも冗談口調であったのであるが。
マキューシオが殺され、そのためにロミオは、ジュリエットとの秘密結婚によって従兄となり、愛する理由を持つべきティボルトを刺した。ロミオは「仔細を知らぬうちは思ひもよるまいが、俺はお前を愛していゐる」と彼に言ったそうだ。しかし結局は刺した。それはジュリエットと自身を引き離す一撃であった。人は、あのときロミオが踏み留まっていれば、と言う。そうかもしれない。しかし刺してしまった。
人の眼は曇りがちであり、見落としてしまうのも無理はないが、マキューシオはモンタギュー家側の人間ではない。その親戚でも勢力下にもいない。ヴェローナ大公の縁戚であり、ロミオと友人であるというだけである。だからマキューシオは、喧伝されているように「両家とも疫病にとりつかれるがいい!」と何度も言ったのだ。
両家対立を背景とするティボルトのロミオへの憎悪、ロミオは原因の極をなす。周りからすれば不可解なロミオの振る舞いが輪をかける。それがマキューシオの命を奪ったのである。つまりはロミオがマキューシオのために復讐するは、自責のためである。この種の自責が、いかに苦しく人の心を焼き、しかも前後見境のない行動へと不可避的に駆り立てていくか、数多くの告解聴聞の経験ある修道士なら分かるであろう。
【参考文献】
・シェイクスピア(福田恆存訳)『ロミオとジュリエット』新潮文庫(Kindle版),1996. *本文中の引用(「 」)は同書より。
・実村文「“the most suspected of this direful murder”—『ロミオとジュリエット』における修道士ロレンスの罪と罰—」明治大学教養論集,389巻,85-102頁,2005.
・下村美佳「ジュリエットの抵抗 : 『 ロミオとジュリエット』における攪乱の契機」埼玉学園大学紀要人間学部篇,11巻,29-38頁,2011.
・五十嵐博久「『ロミオとジュリエット』にみられる法廷的思考(forensic thinking)傾向について」東洋大学人間科学総合研究所紀要,20号,75-96頁,2018.
・鶴田学「感染症の時代に読み直す『ロミオとジュリエット』」英文学研究 支部統合号,14巻,231-239頁,2022.