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【創作】フランシスコ会修道士ロレンスの手記④/シェイクスピア「ロミオとジュリエット」より

フランシスコ会修道士ロレンスの手記


この紙片の余白も残りわずかとなってきた。記せることも限られるであろう。

モンタギューの名に埋もれていたロミオが、キャピュレットの影に隠れていたジュリエットが、纏わりつく泥を跳ねのけ縄をほどき断ち切ろうと瞬発する、それは未熟とはいえだからこそ無垢な力強き神秘の恋。精神が抽象の階梯を駆けのぼり天空へと至り、いままでの眼とは異なるそれで世界を見始める。不思議が生じる、疑問が始まる、問いが押し寄せる。恋人たちが理屈をはじめるのはそのためだ、言葉にうるさくなるのはそのためだ。具象の大地は突如卑小に見えるのだ。

恋は集団では始まらない、一人の心内において始まる。絡みつく集団徒党は大地具象の異名、自由なる個の心は天空抽象の別名であろう。眼前俗世の世間において繰り広げられる政争抗争紛議騒擾は恋人たちには蔑視の的、柔らかき眼差しによる解剖の対象、荒々しくも冷徹な批評の素材に過ぎなくなる。

彼女は分かっていた。「私の敵はあなたの名前だけ。モンタギューではなくても、あなたは矢張りあなたなのだから。ああ、名前を変えて! モンタギューが何だと言ふの? 手でもない、足でもない、腕でも顔でもない、生れ附き人の身に備はつてゐるやうなものとは違ふ。名前に何があると言ふの? 薔薇の花を別の名前で呼んでみても甘い香りは失せはしない。ロミオとて同じ事、ロミオと呼ばれなくても、その完全無欠のお人柄は名前を離れて残らうものを。ロミオ、名前を捨てて。身に備はつたものならぬその名の代りに、受けておくれ、この身のすべてを」

彼は正しく答えた。「ただ一言呼びかけてくれればよい、わが恋人と、それでこの身は新たな洗礼を済ませたことになる、その後はもはやロミオではない」と。

たいの結びつきは天然自然でもなければ神意でもない。張り替えてくれその値札を、取り換えてくれこの番号を。ああ…徹頭徹尾そうであればよい、そうであればよい。しかしそれでも限界があるのだ。大地があるから天空がある。個は虚空から生じはしないのだ。


ヴェローナもモンタギューもキャピュレットも、突如生まれたのではない。見い難き遠き過去より流れ来る、人と風と草木が、花々の戯れと交わし合う声また声が聞こえないか。我が手を凝視せよ、その流れる血潮を感知せよ。お前が作ったのではない、この大地が自然が、偉大なる何ものかが驚くべき理を働かせたのだ、働かせているのだ。

心に自由を勝ち得て天空の風を感じたならば、ふたたび大地に戻る義務がある。新しい眼で一度は卑小卑近に見えた、有象無象が跋扈するこの泥沼の大地に、壮麗な武具をまとって舞い戻り、その宝剣にて切り結ぶ役割がある。

「ロミオ、私も行く! さうだ、これを飲もう、あなたの御無事を祈って」と言って仮死を現ずる眠り薬をジュリエットが飲んだとき、「本当か、それは? 本当なら運命と一戦交へてやる!」と叫んで見えざる相手をロミオが正視したとき、二人にとっての星の時。勇気ある二人の顔を、人々よ記憶せよ。

しかし運命の嵐は二人を天空に押し上げたきり、二度と大地に戻さなかった。それゆえに二人のこの物語は悲劇なのである、語り継がれるべき悲劇なのである。



【参考文献】
・シェイクスピア(福田恆存訳)『ロミオとジュリエット』新潮文庫(Kindle版),1996. *本文中の引用(「 」)は同書より。
・実村文「“the most suspected of this direful murder”—『ロミオとジュリエット』における修道士ロレンスの罪と罰—」明治大学教養論集,389巻,85-102頁,2005.
・下村美佳「ジュリエットの抵抗 : 『 ロミオとジュリエット』における攪乱の契機」埼玉学園大学紀要人間学部篇,11巻,29-38頁,2011.
・五十嵐博久「『ロミオとジュリエット』にみられる法廷的思考(forensic thinking)傾向について」東洋大学人間科学総合研究所紀要,20号,75-96頁,2018.
・鶴田学「感染症の時代に読み直す『ロミオとジュリエット』」英文学研究 支部統合号,14巻,231-239頁,2022.


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