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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第五章「法隆寺燃ゆ」 後編 30

「そういえば……」と、安麻呂が杯を空けた後に切り出した。

 夏も過ぎ、夜も少し涼しくなったかなと、妹の八重子 ―― 八重女の屋敷で月を見ながら夕涼みに興じていたときである。

 大屋敷では、今宵も大伴氏一族が集まり、喧々囂々の議論である。

 蒲生野での一件は、大伴氏に相当な衝撃を与えた。

 性急な策では事を仕損じると、腰を据え、じっくりと取り組もうとなり、近江大津宮近辺での火付け行為は散発的に続けているが、その他の敵対的な行動は控えていた。

 だが、情勢が刻々と変わり、そのような悠長なことをいっている場合ではないと、大伴馬来田たち長老格が騒ぎ出した。

 天智天皇の治世元(668)年10月、高句麗が滅亡した。

 隋、唐と歴代王朝を悩ませ、侵攻軍を悉く撃破した半島最強の国家も、最期は内紛によって呆気なく終わった。

 半島は、唐が旧百済には熊津都督府(ゆうしんととくふ)を、高句麗には安東都護府(あんとうとごふ)を置き、統治した。

 実際、新羅以外の土地は唐の植民地となった。

 新羅からの朝貢は続いていたが、新羅もいつ唐に呑み込まれるかしれない。

 新羅を滅ぼし、半島を支配下に置いた次は、この大八洲国(おおやしまぐに)だろう、というのが朝廷内の一致した見解であった。

 大陸や半島の情勢を見極めるため、またもしもの場合に備え、天智天皇の治世2(669)年正月、それまで栗隈王(くるくまのおおきみ)が就いていた筑紫率(つくしのかみ)に、実力者の蘇我赤兄を任命し、監視とともに、西国及び九州の豪族の統制を行わせた。

 だが、この人事に疑問を持ったのが、大伴氏の長老方々だ。

 ―― あれは、唐や新羅への警戒ではなく、我らへの警戒ではないか?

『わし等との戦に備えて、西国や九州地方の豪族に号令をかけているのではないか?』

 というのが、馬来田の考えだった。

 ―― そんな馬鹿な!

 と、安麻呂は思ったのだが、兄の杜屋や御行たちは、『探ってみましょう』と、動き出す。

 兄たちが動けば、安麻呂も動かなくてはならない。

 やれやれと重い腰を上げ、間諜の真似事のようなことをする。

 こんなことをするよりも、歌を詠んでいたと思うのである。

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