【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第四章「白村江は朱に染まる」 前編 22
年が明けて、本来ならば、「天智(てんじ)天皇の治世元年」となるところだが、中大兄が正式に大王となるのは、これから7年後の668年のことなので、この段階で「天智天皇の治世」を使うのはおかしな話である。
だが、『日本書紀』では662年を「天智天皇の治世元年」として記載しているので、これに合わせることもできるのだが、大王に即位していない人間の治世としたのでは、なんともしっくりこない。
『日本書紀』は、この間天皇不在で、中大兄が皇太子として執政したと記載しているので、「中大兄の称制何年」のほうがあっている。
その中大兄の称制元(662)年1月27日、中大兄と赤兄の話し合いが平行線を辿る中、百済からの再三の要求に応えるために、百済の佐平鬼室福信に対して、矢十万隻・糸五百斤・綿千斤・布千斤・韋千張・稲穂三千斛を贈った。
3月4日、百済帰還を待ち侘びる豊璋王子に対して、布三百端を贈った。
それは未だに中大兄と赤兄の話し合いが上手くいっていない表れであった。
この月、今度は唐・新羅軍が攻め込んで来たと高句麗が倭国に対し救援を求めて来た。
これには、百済援軍派遣に慎重だった鎌子も慌てた。
当初は、百済が滅んでも高句麗が北部にあれば、これと同盟関係を結んで唐・新羅を牽制できると睨んでいたが、高句麗までも唐・新羅の支配下に落ちれば、倭国は半島の影響力を完全に失うことになる。
それだけでなく、新羅も唐の勢力下に完全に組み込まれれば、倭国の東亜での支配力はなくなり、唐との同等外交も非常に厳しい局面に立たされ、罷り間違えば、百済同様に滅ぼされる懼れも出てきたのであった。
鎌子は赤兄を呼び出し、ある程度の譲歩を考えて、中大兄と交渉するように命じた。
鎌子の命を受けた赤兄は、間人皇女を大王に就けることと引き換えに、中大兄の提示する条件を呑むことを約束した。
中大兄の条件とは、速やかに百済援軍を送ることと、百済に関する軍事行動の指揮権を全て中大兄に渡すことの二つであった。
群臣はこの条件を呑み、間人皇女の大王即位と百済援軍の派遣が決定した。
中大兄の称制元(662)年、間人皇女は大王とした即位する。
ただし、『日本書紀』には彼女が即位した記事はない。
ではなぜ、間人皇女の即位があったと広く云われているかというと、『萬葉集』に「中皇命(なかつすめらみこと)」に関する歌が、五首残っているからである。
この「中皇命」が間人皇女であるというのは、江戸時代の国学者荷田春満・賀茂真淵が唱えた説であり、それが広く浸透した。
しかし、この説に対して反対の意見もある。
歴史学者の喜田貞吉氏は斉明天皇と倭姫(やまとひめ)皇后(天智天皇の皇后)だとして、国文学者の折口信夫氏は斉明天皇のことだとしている。
だが、「中皇命」に関する歌は、2首が間人連老(はしひとのむらじのおゆ)の献上した歌であり、残りの3首が紀温湯に行った時の恋歌 ―― 有間皇子事件に関連させて間人皇女に詠わせた ―― あの3首である。
間人連老は、間人皇女を養育した氏族の一人であろう。
と考えると、「中皇命」は間人皇女、またはそれに近い人物と言える。
紀温湯で作った歌は、有間皇子と同じ磐代を詠んだところをみると、有間皇子に関係が深い人物、即ち間人皇女が作った可能性が高い。
であれば、難しいことを考えずに、「中皇命」は間人皇女とした方が良いのではないだろうか?
ともかく、正史には残らない女性天皇が再び誕生したのである。