【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第四章「白村江は朱に染まる」 中編 10
間人大王は木簡から目を離し、目頭を押さえた。
流石に朝から文字を追い続けていると目が翳んでくる。
―― 少し休憩しようかしら?
彼女がそう考え、腰を上げた時、采女(うねめ)が部屋に入って来た。
「皆様方がお揃いになりました」
「皆様方?」
「はい、本日午後から、百済の増援について話し合われるのではなかったのですか?」
書籍に夢中で、すっかり忘れていた。
「そうだったわ。すっかり忘れていた、ごめんなさいね」
間人大王はその采女を連れ、大殿に向かった。
「最近、どうも忘れっぽくて。もう年かしら?」
年と言っても、間人大王はまだ30代前半である。
「年だなんて、まだお若いですわ」
「そうかしら? 肌に張りもなくなってきたみたいだし。目尻に皺も、ほら」
間人大王は振り返り、采女に目尻を指差して見せた。
「大王様、お部屋に籠もりっきりだからですよ。たまには外に出て花を見るといいですわよ」
「花ね……、あっ、そう言えば子供の頃、花を見たら美しくなると母が話してくれたけれど、本当かしら? 母は、その時、素敵な鳥も捕まえたらしいけど」
「あら、素敵! 大王様も如何ですか、外に出られたら? 可愛い小鳥が迷い込むかもしれませんわ」
「それは良いかもね!」
2人は顔を見合わせて笑った。
その笑い声に、前事奏官の中臣国足連(なかおみのくにたりのむらじ)は2人を見た。
2人はその視線に気付き、互いに人指し指を口元にあてた。
その姿にまた可笑しさが込み上げ、2人は笑いを堪えるのに必死だった。
「いいわ!」
御簾の前まで来た間人大王は、笑いを堪えながら国足に合図した。
国足は頭を下げ、大殿の群臣に大王の御出座を告げた。
間人大王の前で話し合われたのは、百済が要請してきた増援のことである。