【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第四章「白村江は朱に染まる」 中編 8
早馬が齎したのは、避城の南にあった居列(きょれつ)城・居勿(きょこつ)城・沙平(さへい)城・徳安(とくあん)城が新羅軍の手に落ちたという知らせだった。
「南の4つの城が落ちたとなると、新羅軍とかなり切迫した状況になりましたな」
王城に集った百済の旧臣たちは、豊璋王を前に以後の対策について話し合った。
「狭井殿、如何いたしたら宜しいでしょう?」
百済の旧臣たちは、事の成り行きに中々対処し切れないでいた。
狭井檳榔の答えは簡単だった。
「如何したもこうしたもありません。ここでは新羅軍を防ぎ切れません。いますぐ周留城に戻るべきです。だから、私たちや秦殿があれほど言ったではないですか、南に下がっては駄目だと」
「私も、いますぐ避城を出て、倭軍の本隊と合流すべきだと考えます」
田来津も檳榔と同じ意見であった。
鬼室福信は、2人の意見を聞き、豊璋王に上申した。
「王様、私も周留城に戻るべきかと考えます。周留城に入り、倭軍と呼応して泗沘と熊津の二城の攻撃に討って出るべきです」
しかし豊璋王は、なおもこの避城に拘った。
「周留か……、私はあまり戻りたくないな。ここで戦うことはできないのか?」
「畏れながら、泗沘と熊津を落とすために、ここでの戦闘による被害は極力避けるべきです」
「周留城にいる倭軍を、こちらに呼べば良いではないか?」
「倭軍には、周留城を守って頂いているのです。もし彼らが離れれば、今度は周留城が狙われます」
「では、倭国にもっと援軍を頼めば良いではないか。なあ、狭井殿」
振られた檳榔は返答に困った。
百済派遣だけでも色々とごたごたがあったのだ、これ以上の増援は期待できない。
これが、倭国としては精一杯のところである。
「鬼室、倭国に増援を願え。百済王と大王は兄弟の間柄だぞ。身内の窮地に黙っておられるはずはない」
「しかし、すでに援軍は着ておりますし。これ以上の援軍は、倭国も厳しいのでは?」
「何を言う。倭国の百済支援の指揮は、全て中大兄様が執っておられる。あの方宛に書簡を送れ。あの方なら、同盟国の窮地を救って下さる」
「はあ……、しかし、仮に増援が来たとしましても、それまでこの城で持ち堪えるには無理があると思います。ここは、やはり、周留城に戻るべきです」
福信は、意を決して諫言した。
「周留、周留とうるさい! 私は百済の王だぞ! キサマ、王の言うことが聞けんのか!」
滅多なことではその柔和な顔を崩さない豊璋王が、ついに怒りを爆発させた。
「王様、もちろん鬼室殿は王様の意見を尊重なさいます。しかし、これはあくまで軍事的な話ですので、我々にお任せ願いたいのです」
福信に助け舟を出したのは、檳榔であった。
「私は、人形で良いということですか!」
「いえ、誰もそんなことは……」
豊璋王の鬚は、怒りで小刻みに揺れる。
「もう良い! どうせ私は邪魔者なのだろう!」
豊璋王は、足を踏み鳴らして部屋を出て行った。
福信は、困った顔で檳榔と田来津の顔を見た。
「鬼室殿、ご安心ください。王は、我々が首に縄を付けてでも周留城に連れて行きますので」
檳榔は、福信に言った。
福信は、深々と頭を下げた。
昨年の12月に周留城を出た田来津たちは、早くも2月には周留城に戻ることとなってしまった。
これにより、百済は敵と衝突する事態は避けられる。
そして福信は、豊璋王の命により、達率金受(きんじゅ)らを倭国に送り、さらなる増援を要請した。
だが、この時の豊璋王の怒りが、後々福信に悲劇を招くことになる。
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