ヒラヤマ タカシ

アンチ・自己責任論のための考察。 なにそれ?という方は、マガジン"「アンチ・自己責任論」まとめ"にある記事を読んでください。

ヒラヤマ タカシ

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  • 「相互理解」の不在と敵対的コミュニケーション

    「相互理解」が無いゆえに、コミュニケーションの結果、全く会話が成立していない例を炎上ネタを起点に解説します

  • 「アンチ・自己責任論」まとめ

    現時点での私の主張のコアの部分

  • 「相互理解」のためのコミュニケーション論

    インターネット時代の、民主主義に必要な、「相互理解」のための、コミュニケーション論、を求めていく一連の論考です。

最近の記事

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「メタ正義感覚による社会デザイン」で分断を解決できるのか?

えー。こんにちは。ヒラヤマです。 読者の方にご質問を頂いたので(ありがとうございます)、久々にまたこんな調子で書いていきます。 今回、特に結論が定まらないと言うか、個人的には重要だと思うんですけど、うーん。って感じの内容です。グダグダ感があります。 「経営コンサルタントの倉本圭三さんという方が、インターネット言論その他について、私ヒラヤマと似たような現状把握から、全然別のビジョンを提案しているけど、どう思いますか?」的なご質問。 倉本さんが、天下国家論的に、だいぶでっ

    • 制限選挙論者としての白井聡:「反知性主義」をめぐる永続戦争

      政治学者で京都精華大学専任講師の白井聡氏が、シンガーソングライターの松任谷由実氏に対して、フェイスブック上で以下のような発言を行い炎上、発言を削除、謝罪するという騒動があった。 これは、松任谷氏がラジオ番組で、安倍晋三首相の辞任に際して、「プライベートでは同じ感性を共有出来る」「ロマンの在り方が同じ」「切なくなった」というようなような発言をしたことが原因のようだ。 なぜ、それが上記の発言につながるのか? 白井氏は、安倍政権に対する舌鋒鋭い批判で知られ、また日本共産党への

      • 議論で寛容にたどり着けるのか?:シーライオニング・青識亜論・表現の自由

        シーライオニング、という単語を聞いたことがあるだろうか?元々はゲーマーゲート論争と呼ばれる英語圏のSNS上での論争の最中に発明され、広く知られるようになった用語だ。 原義としては、論争などがあった時、対立者の理屈を理解しようとするふりをして、形式的には誠実さを保ちながら、執拗に質問を繰り返し、相手を疲弊させるような態度、を表す単語のようだ。このような態度を批難するための、否定的な文脈で使われる。 なぜシーライオニングというか?以下の、元ネタとなった漫画の中のキャラである、

        • 「独自研究」のすすめ

          私がnoteをはじめて三ヶ月が経過した。一歩引いて、ここまでの自己総括、というほどのものでもないが、軽くまとめをしてみたい。 私の一連のnoteはいわゆる独自研究に該当する行為だ。 最初はこれに陥るつもりは無かったのだが、いろいろと迷走の挙げ句、方針転換して、やってみた。すると、案外、意味があるのではないか、という気分になっている。 独自研究はなぜ良くないか独自研究とは一人だけで物事を考えたり調べたりした、「研究」と自称する独自の論理のことを指す。主に否定的な文脈で用い

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        • 「相互理解」の不在と敵対的コミュニケーション
          15本
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          4本
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        記事

          人々は「理論」で連帯できるのか?:社会運動は今、なぜ無力なのか 後編

          前編では、社会運動における連帯の失敗の典型過程を描写し、理論、つまり社会問題に関する直観を説明する統一的な世界観と行動規範の構築という発想自体に問題があるのではないかと述べた。 もちろん、理論の構築は、個人の直観の集合でしかないものを批判的に再検討し、世界観の描像をなるべく客観的なものとするためには有効だ。また、それにより、権威を手に入れることで政治力を確保するという効果もある。 だが、それはあくまで社会運動自体の拡大、社会的弱者の政治力の形成の手段であって、目的ではない

          人々は「理論」で連帯できるのか?:社会運動は今、なぜ無力なのか 後編

          人々は「理論」で連帯できるのか?:社会運動は今、なぜ無力なのか 前編

          ■連帯を拒否する当事者 社会運動。人々の連帯による、社会問題の解決。 今回はとくに、不当に損害を被っている弱者のための連帯運動について述べたい。環境問題や動物倫理などは取り敢えず射程外とする。 社会の漸進的な平等化にむけて、不可欠なはずの社会運動だが、これを掲げ、実行することは、いま、非常に難しくなっている。 これを阻む、最も重大な問題はなんだろうか。 運動に参加すればより多くの利益を受け取れるはずの当事者たちが、参加を拒否したり、その必要性や、問題の存在自体を否認す

          人々は「理論」で連帯できるのか?:社会運動は今、なぜ無力なのか 前編

          「キモいと言うのは危険なのでやめろ」は妥当か?:リスク・シグナリングの巨大リスク

          1.セットアップまず、状況設定をシンプルにするため、仮の話として聞いて頂きたい。 1) 男性Aが深夜に女性Bに声掛けを行った。 2) BはAに対して「キモい」と言った。 3) Aは逆上、Bを暴行し、逮捕された。 この件に関して、 X:「一般にキモいと他人に言う事自体が危険であり、自己の利益のため避けるべき行動だ」 とインターネット上で述べた場合、どうなるだろうか? 上記のXが単体で妥当かについては、とりあえず踏み込まない。その前に認識しなければいけないことがある

          「キモいと言うのは危険なのでやめろ」は妥当か?:リスク・シグナリングの巨大リスク

          なぜ「俗流社会進化論」は消えないのか?:自民党改憲広報を起点に

          進化論。これほど社会に影響を与え、誤解を招いてきた学問はないだろう。 俗流社会進化論が優生学につながり、ナチスドイツの民族弾圧への推進力となったという歴史は私がわざわざ追うまでもない。 本noteで検討したいのは、そこではない。なぜ、俗流社会進化論は消えないのかだ。 自民党広報部が憲法改正について、非常に興味深いマンガ広報を行った。 まだ序盤だが、次のような「論法」だ。 ・進化論によれば、変化することは良いことだ ・ゆえに、憲法を改正したほうがいい。 正直、私は

          なぜ「俗流社会進化論」は消えないのか?:自民党改憲広報を起点に

          Vtuberはリアリティーショーか?:ミームとしての倫理規範

          まず、本論に入るために、改めて倫理規範に関する私の認識を述べておく。 下記は別にオリジナルでもなんでもないし、あえて言語化するかは別として、常識的な話なのでは?とは思うものの、ここを争うのが目的ではないので、あくまで私の勝手な認識として述べる。 1.ミームとしての倫理規範規範は、自らに対してのみ課すことができる。「自ら」というのは共同体ならば共同体の構成員だ。他者を攻撃し、強制することは可能だが、その強制力もまた外側の大きな共同体で共有されている別の規範が源泉に過ぎない。

          Vtuberはリアリティーショーか?:ミームとしての倫理規範

          SNSは、敵対的コミュニケーションに「倫理的交戦規定」を課せるか?(2)

          本noteの流れは上記を参照。 まず、比喩的に流れを確認。SNSにおいて発生する、言論による非対称戦争に際し、軍事介入することなしに、戦争の被害を減らしたい。使えるのは、国境なき医師団を派遣し、炊き出し、各種インフラ整備部隊といった非軍事オプションだけだ。 つまり、言論の応酬、コンフリクトがあったとき、その内容やシグナリングを直接変更させることなしに、行政支援、金銭支援などでアプローチを試みる。 使えるのはだいたい以下のオプションだ。 1.名誉毀損訴訟費用の補助 2

          SNSは、敵対的コミュニケーションに「倫理的交戦規定」を課せるか?(2)

          SNSは、敵対的コミュニケーションに「倫理的交戦規定」を課せるか?(1)

          私の一連のnoteを少しでも読んでいただいている方にはおわかりであろうが、私は基本的に今のインターネットで、異なる立場の間ではまともにコミュニケーションは成立しない、という立場をとってきた。 これは、残念なことに場の信頼感の欠如による構造的原因なので、いくら個人、団体が工夫してコミュニケーションを行っても無駄……というところで打ち切り、今までのnoteを書いてきた。 そして、各種SNSやオンラインサロンといった「場」が敵対的コミュニケーションを禁止、規制したり、空気で抑制

          SNSは、敵対的コミュニケーションに「倫理的交戦規定」を課せるか?(1)

          TERF論争とは何なのか:終わりなき「ジェンダー観戦争」はなぜ起きる?(1)

          TERFという単語をご存知だろうか。 トランス排除的ラディカルフェミニストの略だ。 狭義には「トランス女性をフェミニズム運動から排斥しようとする過激フェミニスト」だが、近年は一般人を含む人々がTERF的だと批判されている。 例えば、最近では小説「ハリーポッター」の著者 J.K.ローリング氏がTERF的だと批判され、大きな話題となり、様々な勢力の間で論争が発生した。 私は、上記の一連の論争を、「ジェンダー観戦争」とみなす。 ジェンダー観とは、文字通り、ジェンダーとは何

          TERF論争とは何なのか:終わりなき「ジェンダー観戦争」はなぜ起きる?(1)

          全てが箕輪編集室化する:唯一神、マーケティングの君臨

          箕輪厚介氏のセクハラ、パワハラ騒動はまだ記憶に新しい。各所から批判が噴出した。しばらく彼は表舞台から姿を消すだろう。 しかし、今回私が主題にしたいのは、箕輪厚介氏自身の人格や、行為ではない。オンライン・サロンの言論の構造、そしてその一般性である。 そもそも、今回、セクハラ、パワハラという形で表出しただけで、本当の問題は個別のハラスメントではない。あえて言うなら、ハラスメントを誘発する構造への批判を無効化できる構造そのものが病理だ。 本noteは上記の騒動を他人事だと思っ

          全てが箕輪編集室化する:唯一神、マーケティングの君臨

          「誹謗中傷はダサい」というインターネットの末路

          インターネット上のコミュニケーション・コンフリクトが起きるたび、全ての原因である「誹謗中傷」を抑止せよ、という提案がなされることは多い。本noteでもいくつかそういったケースを取り上げてきた。 これは「正しい」だろうか? まず、気持ちはわかる、と答えておく。そう言いたくなってしまう人は決して間違っていないし、そういった人が悪いわけではない。 だが、これを「正しい」としてしまうと、大半の人にとってはもっと酷いことになる。 安易に答える前に、そもそも誹謗中傷とはなにか、そ

          「誹謗中傷はダサい」というインターネットの末路

          「ファシズムvsアンチファシズム」を解体できるか?(4)「結束主義」から「和合主義」へ

          0.ここまでのまとめと日本の政治状況前回までの一連のnoteで、アンチファシズムが「正義」であるのにも関わらず暴力的なのは、構造上どうしようもなく、自発的にやめることも不可能で、かつ彼らの運動も無意味である事をみた。アンチファシズムの問題は、アンチファシズム自身では永久に解決不能である。 これの「解決」として私は以下を提案する。 ようするに、ファシズム的なもの、ファシズムの部品だけが好きな人々に対し、別の選択肢を用意すれば良い。それは、ファシズムの部品だけが好きな人々に都

          「ファシズムvsアンチファシズム」を解体できるか?(4)「結束主義」から「和合主義」へ

          「ファシズムvsアンチファシズム」を解体できるか?(3)なぜANTIFAは「暴力的」なのか

          前回、「悪」と「正義」の非対称性について述べた。今「悪」がファシズム、「正義」側がアンチファシズムである。 アンチファシズムとは何か。歴史的には中々難しい。しかし、理念としては単純だ。「悪」であるファシズムの実行に対抗すべきであり、さらにその世界観と思想を否定すべきだ、という思想のことである。究極的にはそれだけなので、ごく単純だ。 ただし、思想は単純でも、その実行は複雑で、かつ常に様々なコンフリクトを発生させる。だから問題は、アンチファシズムとは何であるべきか、ではなく、

          「ファシズムvsアンチファシズム」を解体できるか?(3)なぜANTIFAは「暴力的」なのか