人々は「理論」で連帯できるのか?:社会運動は今、なぜ無力なのか 前編
■連帯を拒否する当事者
社会運動。人々の連帯による、社会問題の解決。
今回はとくに、不当に損害を被っている弱者のための連帯運動について述べたい。環境問題や動物倫理などは取り敢えず射程外とする。
社会の漸進的な平等化にむけて、不可欠なはずの社会運動だが、これを掲げ、実行することは、いま、非常に難しくなっている。
これを阻む、最も重大な問題はなんだろうか。
運動に参加すればより多くの利益を受け取れるはずの当事者たちが、参加を拒否したり、その必要性や、問題の存在自体を否認することではないか。
もちろん、これは単なる私見に過ぎない。だが、現代においてはこれが一番危険、かつ非常に一般的な、正面から向き合うべき課題だと感じる。
■ 暗黙の前提と、コミュニケーション・エラー
弱者の連帯運動には、個別の運動を超えた大前提がある。
「弱者は連帯したほうが得だとわかれば、運動に参加してくれるはず」
「多くの人間は、自由市場の前では何らかの意味で弱者か、弱者になりうるのだから、それぞれの社会運動の実行で、少なくとも過半数を上回る市民の間で交渉の余地が生まれ、政治利益の取引で全体の問題解決が可能」
「これらを平易な言葉で説得していけば、全ての運動は広がっていく」
これは社会運動全般の暗黙の了解、運動の根拠と言ってもいい。これによって、運動は単なる利益追求を超え、個人利益と全体利益の調整の手法として妥当となり、民主主義において実行可能だ。
だが現実には、この前提は機能していないように見える。
例えば、労働運動に参加しない、むしろ攻撃する賃労働者の存在。
世代差による不平等を被るにも関わらず、社会運動自体を拒絶する若者。
一方では救済を訴えながら、別の弱者を攻撃する弱者。
弱者救済など不可能であると断定する、決して強者には見えない一般人。
◇◇◇◇◇
現在では、これらを大衆の知識不足や認識機会の欠如、想像力の不足が原因だと断定し、教育や啓蒙で解決しようとする発想が主流だ。
あるいは、特定勢力の流すフェイクや、スティグマ化が原因だと考え、それを批判し、認識を訂正していくことで、乗り越えようとする動きもある。
だが、観測事実として、この方向は成果を上げていない。つまり、反対者、日和見派を説得できず、沈黙する人々に語らせることが出来ていない。
むしろ、より強固な反発を生み、リベラリズム批判、理性主義批判といった全く逆方向の巨大なムーブメントに回収される状況すら発生している。
安易にそれに再反論するのではなく、社会運動の側が、何かを間違えているのではないか?という観点から、検討し直したい。
■ 連帯のための理論
社会運動は一般にどのようなロジックで、どう展開されるのか。
人間はたとえ個人が弱くても、協調することで、助け合うことができ、交渉力を増し、取引で有利になれる。だが、話は簡単ではない。
誰かを搾取したり、騙したり、裏切ることで利益を得られるのだから、人々を集めたからといって連帯できるとは限らない。
連帯したいと思っていても、何をすれば良いのか、そもそも自分が置かれている状況は何なのか、それすら分からないことは多い。というか、皆がそれがわかっていれば問題は解決だ。
◇◇◇◇◇
ではどうするか。歴史的には、次の手法が有用だとされ、生き残ってきた。
社会運動理論の構成だ。
ここでいう「理論」とは何か。次の3つを統一的に説明する言葉だ。
・特定の人々が不当に損害を被っているという、直観
・その構造的原因を説明する、世界観
・構造に立ち向かい、最終的には解体するための、行動規範
この理論を旗印に、人々を集め、団結し、交渉し、その結果をうけて理論を修正していくことで、利益最大化を達成する。これが社会運動だ。
■連帯の失敗
一見すると、これは悪くない考えのように思われる。事実、運動初期には大抵、勢力拡大と、それに伴う政治的成果を達成できることは多い。
だが、ある時期をすぎると、暗雲が立ち込めてくる。
たとえば、理論を攻撃する対抗言論が構成され、メンバーにスティグマが貼られたり、攻撃する言説が流布するようになる。
理論の帰結が気に入らないメンバーが出てくることで、深刻な内部対立が発生し、分派し、ひどい場合には批判をこえて互いに攻撃し合う。
その他の弱者連帯運動と世界観が矛盾した場合、弱者同士の新しい対立構造の出現、という最悪の状況にも陥る。
自由市場で戦ったら勝てない人々を連帯させ、強くするという本来の目的とは真逆、弱者の分割統治というデッドロックが生み出されてしまう。
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要するに、弱者の利益最大化という目的に逆行する構造を、理論による連帯運動そのものが作ってしまう。
一度こうなると、理論と運動の正当性が疑われ、徐々に衰退し始める。その後は、先鋭化へと突き進んだり、分派に次ぐ分派で団結が不可能になったり、状況は悪化の一途をたどる。
そして、その終着点が、当事者が、社会運動への参加を拒否し、その必要性自体を否認する、行き止まりだ。
運動に関わる特定の人物の責任にするのは間違っている。なぜなら、この状況は、ほぼあらゆる運動において発生しているからだ。構造上の原因があると考えるのが妥当だろう。
とはいえ、構造を指摘するだけでは意味がない。それを取り除けるのか?というのが本題だ。
まず以下で、弱者連帯運動のたどる「最悪の展開」を抽象化して描写する。そのうえで、失敗のボトルネックは何かを考察しよう。
無論、以下で述べる展開は、すべて私の主観でしかない。
だが、その根拠となる観察対象は、特定の弱者連帯運動の観察に限ったものではないことは強調したい。
■ 社会運動の展開:端緒から拡大
まず、全ては直観から始まる。
誰かが、社会状況を観察し、問題に気づく。不当に苦しんでいる存在がいて、それは偶然ではなく社会の構造に起因するという、認識と判断、そこが全ての始まりだ。
この認識、そして判断は真実なのか?それとも、偏った信念に基づく誤謬なのか?これは決して客観的には判定できない。いくらデータを集めても、何が問題で、何が不当なのかというのは価値判断、主観に過ぎないからだ。
ゆえに、全ては公論に問う必要がある。また、それ自体が運動の目的そのものでもある。直観に対する共感を集め、皆で協力すること、それが社会運動の正しさの源泉、かつ最終目標でもある。
そのために必要とされ、出来上がってくるのが理論だ。
問題の存在という直観を構造的に説明する世界観、そしてそのうえで、解決に向けてどうすべきかを述べる行動規範。
これがどのように作られるかは状況によるが、最初は学識や言語能力に優れた理論家が単独、もしくは少数のグループで構成する事が多い。
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再三述べるように、理論が正しいかどうかを保証する絶対的基準はなにもない。初期メンバーの信念から始まり、最も広い意味での公論上で交わされるコミュニケーション、運動とは関係ない外部規範から輸入された正当性、現実を変更することができたという政治力、そういったもの全ての合算としての信用こそが理論の唯一の駆動力だ。
この過程で、理論は、内向きの言葉と外向きの言葉を産み出す。
内向きの言葉は、すでに問題意識を共有した仲間たちが、理論の発展、つまり問題のより良い理解と解決という目標に向けて協調するための言葉だ。ルールは共有され、独自の発展を遂げるが、内部では一貫している。
外向きの言葉は、問題そのものを認識していない人間、あるいはそれを否認する人間に対する、啓蒙の言葉だ。会話の相手と前提が共有されていない以上、なんでもありだ。外部規範や常識を、ときに批判したり、逆用したり、攻撃に応答する必要があるので、メタゲームの結果、軍拡競争的に決まる、一貫した論理のないものとなる。前提を共有せず、閉じていない論理が一貫することは不可能だ。
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これらの言葉で、まず社会全体へと拡大を目指す。この拡大期を突破できるかが、最初の勝負だ。
ここで致命的に行き詰まればそれで終わりだ。そうなったら、そもそも社会運動とはみなされない可能性も高い。
成功と失敗を分ける鍵はなにか。初期の運動家たちの言語能力、宣伝能力、政治資本、個人的カリスマ?あるいは、問題そのものの、外部規範による正当性?そういったも影響も無いとは言えない。
だが、実際のところ、ほとんど関係ない。重要なのは、当事者の数と、解決したいという欲求の強さ、ほぼそれだけだ。
実のところ、言葉の中身、議論の正しさ、世界観の正確さ、行動規範の妥当性、それらは初期段階では大した意味がない。不満を解決したいという欲求を肯定し、解決できるという希望を与えてくれる言葉には、人々はよく中身を吟味せず飛びつく。
数は力だ。とくに民主主義ではそれは明らかだ。どんな人間であっても投票権さえ持っていれば数に比例した力を持つし、キャスティング・ボートを握れる状況なら、少数派でも十分に政策実行能力を得られる。民主主義以前の社会でさえ、暴力や市場取引、その他の社会的交渉によって、団結すれば力を発揮できる。
力は正当性の根拠となり、正当性はさらなる力をもたらす。そして、参加者に政治利益が分配されていけば、実際にある程度、問題は解決できる。単純に、当事者の政治力の不足が問題の一因であることが多いからだ。ここまで来ると、社会運動と理論の地位は確固たるものとなる。
この過程で、内向きの言葉と外向きの言葉が作られていく。だが最も重要なのは外向きの言葉だ。内部で争うインセンティブはまだそれほどではない。勢力拡大こそが全員の利益にかなう行為だ。
この時点では内向きの言葉は、連帯し団結するためのお題目のような存在だ。もちろん、運動する人間は、主観的には真剣に考え、様々な歴史を学び、発話し、記述するわけだが、その程度で世界について何か新しいことが分かったら世話はない。大抵は分かった気になっているだけだ。
一方、外向きの言葉は他勢力との政治的争いと、大衆の反応によって洗練されていき、一気に厚みと、説得力を増していく。だがこれも、公平を期していうなら、単にディベート合戦に強くなっただけだ。
しかし不安や自省は生まれない。初期に重要なのは、問題が存在するという確信、それを広め、勢力拡大をすることが重要だという規範、それだけがあれば良い。それだけで、世界観と行動規範は直観にかなう。
■ 社会運動の展開:定着
さて、勢力拡大に見事成功したら、問題解決に一歩前進する。ここからは定着期と言える。やっと、その社会運動特有の、構造的問題に着手できる。
だが、もう一度冷静に考えてみよう。ここまでの成果は、理論の中身とは、ほぼ何も関係がない。理論は、政治力の拡大以外に使われていない。とくに、世界観と行動規範の細部は、何の根拠もない。
というわけで、最初の、構造レベルでの問題解決の試みは、大抵、全て失敗する。これは不思議でもなんでも無い。これがスタート地点だ。理論は実行し、修正して初めて机上の空論を脱することが出来る。当たり前の話だ。
だが、運動の参加者、そして敵対者がこの当たり前さを理解しているかどうかは全くの別問題だ。得てして、ほとんどの人間は当たり前の話を何一つ理解していない。
よって失敗は、失望や攻撃の対象となる。理論を修正する必要がある、という認識を超えて、理論への疑念が芽生える。
さて、ここで愚直に、直観・世界観・行動規範を全てゼロから見直そうとすると、それは運動自体の政治力の喪失に繋がる恐れがある。政権をとった政治家が選挙で掲げたマニフェストをいきなり撤回するような話だからだ。
もちろん、政権に就いた後、マニフェストが良くなかったと分かれば、単純な合理主義の観点からすれば撤回すべきだ。だが、それによって次の選挙で落選してしまう可能性が高いなら、たとえ合理主義者でも躊躇するはずだ。
こういった状況は、科学的手法と、実に相性が悪い。科学の基本は懐疑主義だ。全てを仮説として扱い、実験によって修正していくことを基本原則とする。強力かつ普遍的な手法だが、実行は必ずしも容易ではない。
一見矛盾するようだが、懐疑主義は信頼感が無いと成立しない。懐疑は理論の否定ではなく、発展のための手法だと皆が納得していない限り、攻撃に見えてしまうので、糾弾され、発言権を失う可能性もある。
これらの状況の元、内向きの言葉・外向きの言葉を変更し、内外の失望・不満・攻撃に耐え、政治力と正当性を確保しながら、なんとか問題解決を試みる時期、定着期が続く。
この時期には特に内向きの言葉が整備され、その正当性を擁護することが内部の権力争いに直結する。すでに拡大の勢いは止まっているため、得たものを保持するのが全体の利益だという合意形成があるからだ。
問題解決が困難だと分かっている以上、なぜ問題解決は困難なのかを説明しようとする内向きの言葉が発達し始める。
苦しい現実に対するセラピーを求める人間は哲学や人生観を、敵や権力の打倒を求める人間は、その悪辣さの証拠を求め闘争史観を発展させる。これらは、必ずしも問題解決にはつながらない。
もちろん、団結や勢力拡大の役に立つ範囲においては有用だが、それ以上の意味はない。ところが、たとえこれが自己目的化しても、主観的には、言葉を使って全力で問題解決のための努力をしていると思っている。
このあたりから、理論、とくに内向きの言葉を扱う能力の高い人間と、それ以外の人間の意識が乖離し始める。言語能力や学識に優れた人間は文脈を学習し、相互批判を行う能力があるわけだが、一般の当事者や、善意の協力者の大半はそうではないし、それを行いたいとも思っていない。だが、信用、つまりこれが運動に必要だという納得感から、取り敢えず従う。
まだまだ信用は失われない。信用は期待から生まれる。政治力を保持してさえいれば、運動は社会へと定着していき、問題解決のための手法だと認識され、実際にある程度の力はあるのだから、将来的な解決への期待から運動への参入者は減らない。
■ 社会運動の展開:分裂
定着期で問題が解決しきれば、円満に終れるのだが、問題が複雑な場合、そういった形で決着することは難しい。単純な権力確保で解決できる問題以外は何一つ解決できない事が多い。
時間経過に従い、信用が失われる。そうすると分裂期に突入する。何かが間違っているのではないか、という空気が蔓延する。とはいえ、何を疑うかは個人の直観だけが頼りなのだから、統一は不可能であり、分断が始まる。
過去の成功体験に学んだ人間は、世界観は正しいが、その追求が不足であると考え、さらなる勢力拡大を追求する。これは世界観や行動規範を変更せず、過激化すればいいので、理論の構築は容易だ。
だが、すでに拡大期が終わった後に再拡大を行うのは容易ではない。というか、ほぼ不可能だ。よほどの宣伝の天才がいない限り、この派閥が主流派となっても、信用を失い、いずれ傍流へと追いやられる。
学識や言語能力の高い人間の一部は、全ての前提を見直す方向に舵を切ろうとする。だがこれは非常に危険だ。すでに運動のコンテクストは積み重なってしまっている。これを批判することは、運動自体への疑義と取られる。
そうではない、全ては運動のためにやっていると弁解し、アカデミアでそのための理論武装も行うわけだが、主な相手は言語能力の低い味方だから、論争で一方的にやり込めるような状況が何度も発生し、心象は悪化していく。
そのため、現状の言葉に沿いながら、複雑な言葉を積み重ねて軌道修正を行っていくという迂遠な試みをせざるを得ない。これはかなり厳しいし、内心を理解していない側から見ると単なる言葉遊びと思われる。
結局、分裂期において、政治的に最も有効な一手は、問題構造を敵として偶像化することだ。失敗の原因は、無能さではなく、敵の悪意を甘く見ていたことになる。仲間割れは敵の目論見通りだから避けるべき、と規範化する。
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これは最初はうまくいく。人は明確な敵の前では、小さな対立を飲み込むことが出来る。それで問題が解決するなら、必ずしも悪手ではない。だが同時に、最も危険な構造が導入されてしまう。それは悪意への疑いだ。
無能で十分説明されることに悪意を見出すな
これは、いわゆるハンロンの剃刀だ。協力のための基本的な規範ではあるが、普通の人間がこの規範を守るのは容易ではない。だから、悪意を見出すなら敵だけにしろ、味方を疑うべからず、という容易な規範で代替してしまう。これには二重の危険がある。
まず、味方の無能が敵の悪意で説明され、手法への批判や変更の可能性が失われる。次に、外部の無能や無理解は悪意の証拠となり、即時の反撃を誘発し、交渉可能性が損なわれる。結局、実行力と政治力、両方が衰えていく。
これらの結果、内向きの言葉は少しずつ分派していく。まだ内部での決定的な対立には至らない。敵の前では、世界観が違っても仲間ではある。仲間と争いたい人間はそういない。細かい違いを確認するインセンティブもない以上、争いは停止され、なんとか問題解決を図ろうという努力は続く。
だが、だいぶ状況は悪い。外部勢力との政治取引が難しくなっていくためだ。敵の設定をどうしたかによるが、大衆や権力、科学、権威、常識のような広い概念を敵に設定してしまった場合、取引の余地は限られる。
そして最も危険なのは、運動に参加していない当事者は無知な大衆だという認識から、仲間 or 敵という分類では敵寄りに分類されるという倒錯だ。この危険性は論ずるまでもないだろう。運動自体を崩壊させかねない。
これを回避するために、彼らは敵に騙されている被害者であり、啓蒙して救済すべきというロジックが構成される事が多い。拡大期にも似たような理屈を採用することは多いから、無批判に採用してしまう。
拡大期には、参加すれば問題解決してくれそうな魅力と勢いがあるからこそ、単純な構造が受け入れられ、当事者は参加してくれる。同じロジックを停滞と分裂の中にある組織が唱えたらどうなるか、一歩引いて少し考えたら分かるはずだ。
政治力こそあるが、問題解決能力は乏しく、それを敵のせいにし、自己批判を行わず、外部に対する攻撃と啓蒙だけは洗練された思想集団。思想の中身が素晴らしくても、学ぶ以前にカルト宗教の類だと判定されるだろう。
もちろん、自発的に歴史を勉強してくれれば、それが一定の理のある社会運動だというところまでは納得してもらえるだろう。しかし、それには先に信用が必要であり、それはもはや失われつつある。運動の熱心な参加者はそれに気づかない、または気づきたくないので否認するのだが。
以上より、これ以降、当事者は運動への参加や、その存在意義を拒絶し始める。理由は単純、役に立つという期待感がないからだ。
■ 社会運動の展開:崩壊の前兆
さて、分裂期で問題が解決するか。可能性がないとは言えないが、厳しい。すでに団結力は失われており、全員が無前提に協力できるような状況以外では力を発揮できない。その程度で解決する問題なら、定着期までで円満に終了しているだろう。ここからは崩壊前兆期といえる。
まだ社会運動は崩壊しない。存在価値は残っている。政治力さえ保持していれば、単純な問題にはアプローチでき、当事者の利益につながる。根本的解決を諦め、小集団として生き残りを図るのも一つの道だ。
とはいえ、大半の社会運動は、この道を選ぶのは無理だ。政治力は拡大することより維持することの方がずっと難しい。人々は運動に変化を求めて参加するのであり、地道な現状維持活動に耐えられる人間は少ない。
学者や政治家、教師、医療関係などの支援者、その他、運動に関わる生業を持つ人間だけが長期戦略を選択できる。問題解決への切実な動機があるが、これと言った能力のない当事者は、鬱屈と運動への衝動から、内向きの言葉と外向きの言葉を融合させ、独自の理論を構築し始める。
それはもはや問題解決のための理論とは言い難い。大半の人間は、論理的思考や自己批判を行う能力がないし、歴史や科学についても全くの無知だ。そしてその自己認識すら欠如している。頼れるのは直観だけだ。
直観。要するに、自分の人生で見てきたものに対する素朴な情動だ。それは同じような人生を歩んできた人間の共感を引き出す。そして一面では真実を捉えている。これを説明する言葉は、当事者の中では魅力的だ。
しかし、当たり前の話として、全く違う人生を歩んできた人間が他人の直観に共感するのは難しい。理不尽な体験から引き出される直観は、外部の人間との間はおろか、当事者同士でも共感が難しく、不和をもたらす。
不和はストレスになる。人間はストレスに晒されると、そこから逃れようとする。逃れられないと分かると絶望して、無気力症になるわけだが、そうでない人間はどうか。議論をやめ、運動から離れれば一つの安息だ。
だが、当事者は問題というストレスから逃れるために社会運動に参加している。その程度が甚だしければ、社会運動から離れること自体が絶望につながるため、それを拒絶し、徹底的に世界観と行動規範を練り上げることで、ストレスから逃れようとする。
これは、社会運動に限った反応ではない。例えば、内戦に苛まれた途上国では、奇妙で残虐な呪術的世界観や陰謀論が流行する事が多い。それは伝統的な宗教や科学的事実の用語のみを借用した、全くの別物となる。
そういった世界観は、人々の体感治安のみを反映している。なぜ自分が理不尽な目に合うか、という説明に足るような理不尽な世界観と、それとの戦い方を構成することで、絶望から逃れようとするわけだ。
これが、社会運動の理論を換骨奪胎する形で再構成される。悪いことに、用語は同じなので、一見、内部では話が通じているようで、何も通じていないという状況の原因となる。
世界観は客観的事実とは関係がなく、戦い方は何の解決にもならないか、明らかに不可能なことを要求するため、第三者からは批判や嘲笑の対象となる。これがストレスとなり、体感治安は悪化していき、さらなる過激化へと向かうループが形成される。
だが、これだけでは運動は崩壊しない。第三者はあくまで第三者なので、真剣に批判する動機はない。話が通じないとわかれば無視し始めるだろう。無視や嘲笑で勢力が崩壊することはない。
運動の正当な理論の主導者も、彼らを真剣に批判したりはしない。それは反感を買うだけだし、話が通じないことはだいたい分かっているからだ。敵とされない限りは、政治力の行使に動員できる仲間であることは変わらない。
ここに、外的要因が加わると、崩壊へと進む。
◇◇◇◇◇
実際に崩壊まで行くケースはそこまで多くない。崩壊前兆期までくると、新規の当事者は相当に減るはずだ。当事者がそもそも少ない社会運動なら、この時点で緩やかに衰退していくことになるだろう。
だが、不幸なことに、この段階を乗り切れてしまうような運動、つまり十分に多くの潜在的な当事者がいる社会運動は、崩壊する可能性を常に抱えながらも、政治的権力を保持したまま、社会に根づく。
とくに、学者などが語る内向きの言葉、つまり正当な社会運動理論の多様性はむしろ最盛期を迎える。アカデミアにおいては解決に向けた努力は必ずしも必要ない。問題を記述し、描写すればいい。問題のコンテクストが複雑化すればするほど、論文にできる研究対象や分野が増える。
もちろん、法学や行政学など、問題解決能力のある他分野との連携などの動きもあるだろうが、社会運動理論の側がより大きい学問体系を主導するのは不可能な以上、少数の研究グループ単位の各論的仕事にとどまり、強力なムーブメントにはつながらないだろう。
主観的には、これらの学者も、自分なりに最大限の努力で問題に取り組んでいるつもりだろう。どんな内容であれ、アカデミアで生き残り、学者として仕事をすることは、とてつもない努力を要する。
外向きの言葉も、一見、小綺麗に整備される。その完成度に対し、世間一般への説得力は薄いのだが、若い世代は感化される者も出てくるし、とくに学者が相手にするのは素直で学習意欲の高い学生だ。
ゆえに、足元の崩壊の危険性には気づき辛い。当事者のための運動だという理解はあっても、過激思想に囚われた一部の当事者と認識した人々は、対話の相手としては基本的に却下し、あくまで現象として扱われる。これは、アカデミアの内部ルールとしては不自然ではない。問題は、それを外部から眺めた時どう映るかだが。
アカデミアの主導する、ハイコンテクストかつ高度な学習を要する理論と、草の根の当事者が構成する、直観だけに頼った、明文化もされていない理論。その乖離は段々と激しくなっていくが、比較すら難しい。
新規の当事者は矛盾に混乱し、運動の入り口で撤退するか、遠巻きに眺める事がほとんどになるだろう。特別に運動への意欲がある当事者だけが、上記の二択からどちらかを選ぶ。
■ 社会運動の展開:崩壊
最後は、社会運動の崩壊。それは何故起きるか?その前に、抑えておきたい事実がある。
社会運動は、世界観を共有しない外部からの攻撃ではまず崩壊しない。
批判、嫌がらせ、スティグマ化は、一般の当事者の参加を躊躇はさせるものの、熱心な運動家にとってはむしろ燃料だ。それは問題の存在の直観的証拠となり、世界観の補強であり、それと戦うことが規範となる。
たとえ権力が強力な弾圧を行ったとしても、その事実もむしろ運動家たちを奮い立たせ、世界観の証拠となり、社会運動の勢いは燃え上がるだろう。強力な敵の存在は細かな対立を乗り越えさせ、団結をもたらす。
軍政などが強力な情報コントロールや処刑を行ったとしても、国外勢力との合流などを生み、むしろ運動に強力な正当性が付与される。これを潰し切ることは、現代ではまず不可能だ。
ゆえに、社会運動が崩壊するのは、ほぼ必ず、内戦の発生による。
内戦。すなわち、世界観を共有するはずの相手との、絶対的な対立だ。
なぜ対立が発生するか。行動規範をめぐる、直観の対立に起因する。
理論は、問題の構造的解決のためと称し、様々な行動規範を命ずる。この頃になると、生活や思考様式すべてに対して何らかの規範が設計されるようになり、私的・公的領域に関わらず、あらゆる行動に対して何をするべきか、何をすべきでないかが定まっている。
もちろん、それに従う必要はない。だが、社会運動は最終的にはその規範を社会に導入し、さらには行政システムに実装することを目論んでいるはずだ。ゆえに、強制力としてはたらくことが予感される。
ここでもし、当事者が直観的に、絶対に拒否したい行動や状況を理論が命じた場合、対立への絶対的な動機が発生してしまう。理論家は何とか世界観を説明し、納得してもらおうとするかもしれないが、それは不可能だ。
当事者は、直観を説明してくれるから理論を認めていたのであって、逆ではない。直観に強力に反する理論は全て却下される。そもそも理論の根拠は究極的には当事者の直観だけなのだから、これは自明のはずだが、しばし理論家にとっては理論の発展が自己目的化し、この前提を忘れてしまう。
もちろん、その規範を引っ込めれば、内戦は回避できる。問題は、この規範を命じていたのが別の運動当事者の直観に起因していて、これを撤回することもまた強力な対立の駆動力になってしまう場合だ。
最初に述べたとおり、あらゆる弱者連帯運動は最終的に連帯するという暗黙の前提があり、世界観のバックグラウンドだ。だがそれは、理論家にとっては自明の事実でも、当事者にとっては寝耳に水となる。普通、人間はよほど切実な動機がない限り、そういったマクロな視点は持てないものだ。
よって、どちらも主観的には、自らの直観を攻撃する不当な構造が、突如出現したと感じる。こうなると、内戦へと突き進むしかなくなる。
どんなに世界観を上手く構成し、調停を試みたとしたとしても、それを説明する段階で、どちらに与するかの踏み絵を迫られるため、まともに発言することは難しい。
それどころか、大抵の理論家もこの対立をメタ化して捉えることが出来ず、どちらが正しいのかを明らかにしようとしてしまう。当然、それは正しくないとされた側に全面否認される。
ゆえに全ては崩壊する。
◇◇◇◇◇
崩壊とは、何が崩壊するのか?運動や言論活動、学問そのものではない。
崩壊するのは信頼感だ。
そもそも、社会運動の根拠となっていたのは、論理ではない。あくまで、直観に対する共感、相互承認による信頼感であった。論理は共感を補助していただけであり、実際のところ大した論理ではない。無前提の批判に耐えうるような強度や説得力はない。
しかも今、敵は決していなくならない。民主主義国家において敵勢力を抹消することは不可能だ。それが、世界観の近い、しかし絶対的に対立する相手となれば、社会運動は単に永遠の内戦の場となる。
このように、信頼感が崩壊すると、言葉と論理は空転し、何の意味もなさなくなるどころか、単に気に入らない相手のすべてを否定するための攻撃技術になる。
以上を客観的に見ると、社会運動の名を冠した、意味不明の言論による戦闘行為なのだが、本人たちの主観では自分たちの当然の権利を守るための活動だ。問題解決のための連帯という主題はどこかに消え去っている。
これを横目に眺めた時、当事者や一般市民が運動の意義や可能性自体を直観的に否定するのは、むしろ自然なのではないだろうか。
さて、上述の失敗の構造を解体する方法はあるだろうか。後編で考察したいが、かなり根本のところから見直す必要があると思う。
ようやく表題にはいる準備ができた。そもそも、理論、つまり直観を説明する統一的な世界観と行動規範の構築は、本当に有効なのか、そもそも必要なのか、という疑問だ。
人間は、理論を見ると、その具体的な中身を論じたくなるわけだが、科学と違ってどこまで行っても根拠が直観しか無い理論は、共感のためだけにあるずであり、それが出来ていなければ中身に関係なく意味がない。
これについて後編で扱っていきたい。
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