「メタ正義感覚による社会デザイン」で分断を解決できるのか?
えー。こんにちは。ヒラヤマです。
読者の方にご質問を頂いたので(ありがとうございます)、久々にまたこんな調子で書いていきます。
今回、特に結論が定まらないと言うか、個人的には重要だと思うんですけど、うーん。って感じの内容です。グダグダ感があります。
「経営コンサルタントの倉本圭三さんという方が、インターネット言論その他について、私ヒラヤマと似たような現状把握から、全然別のビジョンを提案しているけど、どう思いますか?」的なご質問。
倉本さんが、天下国家論的に、だいぶでっかいビジョンを語っているのに合わせたので、いつにも増して、色々と怪しいです、ご注意を。
一応、質問も下に貼りますけど、あんまり細かく検討しないで返信したので、だいぶ雑になってしまいました。まあ、読まなくて大丈夫です。
最近、倉本さんの以下のnoteがバズったみたいですね。最後の部分が有料ですが、無料部分だけでも、色々なサブカルネタについて書いてあって、なかなか楽しめます。
経歴をググってみると、倉本さんは京大からマッキンゼーのエリートながら、ブラック企業、ホスト、カルト宗教まで潜入した後、経験を活かし企業だけでなく個人向けコンサルタントをやっている、という異色の経歴の持ち主、らしいです。
いくつかnoteを読んでみましたが、社会の分断についての「現状把握」は、流石にコンサルだけあり、海外の状況から日本の政治まで網羅されていて、説明も上手いですね。
しいて言えば、先進的な価値観や正義感を持っている人々が「自分たちは倫理的である、故に自分たちの意見は優先されるべきだ」と考え、現在そのようにふるまっていることを対立や分断の主因としているところが、私とは違うところです。
これについては後でもう少し検討します。
まあでも、「現状把握」は、価値観が絶対的に異なる集団が公論上や社会のあちこちで衝突、分断が加速していっているので、どうにかしよう、という程度の話ではあります。
ここまでは、言ってしまえば、理解しようと思えば、誰でも理解できる。思えるかが問題なんですよね。
結論において、私と大きく違うのは、これを理解し、対話に参加できる人が、「対話できない人」を、とりあえず無視し、見切り発車で社会の改善を積み重ねていくことによって、対話の有効性が認められ、みんな参加してくれるようになるだろう。って感じのところ。
もう少し細かく見てみます。
とりあえず、kindle unlimtedで無料だったのもあり、彼の最新の著書を読んでみました。
これをざっくり紹介。
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提言されているのは、対立する相手との相互的コミュニケーションのために必要なマインドセットを身に着けよう、ということです。
それはなにか。
意見が広範囲かつ強力に対立している相手が、仮に殺してやりたいほど憎い「敵」だったとしても、何らかの存在理由、歴史的文脈があるだろう、とまず推定し、これを分析して、存在理由を無くすことにより、根本的に発生しなくなる方法、殲滅方法を考える。しかし、これが簡単にできない場合は、利益のために妥協を選択しよう、と考える。
この一連のマインドセットを「メタ正義感覚」と名付け、これからの時代はこれを身につけ、基本的にあらゆる場面でこう振る舞えるようになることがエリートではない、すべての人にとっても必要だ、と提言されています。
ただ、今すぐ全員がやるのは難しいので、これを身につけることが現時点で利得になる人々が、「メタ正義感覚」で社会を変えていくことで、だんだん普及するだろう、とします。
その人々、と言えば、まあ大体想定されているのは
・起業家、地方創生や中小企業の改善業務、ライフスタイルとビジネスの一体化モデルなどを推進し、価値観の変化や多様化とビジネスをつなげたい人
・マクロ経済政策、平等化政策、エネルギー政策等を変更し、社会の現状変更や改革そのものを行いたい人
の二パターンです。まあ、一種エリートですね。コンサル相手もこういった顧客らしく、中には野党議員などもいた、と書いてあります。
これを身につければ、スムーズに利益調停ができ、裁量権を握れるので、そこから社会をデザインして、少しずつ変えていこう、そうすれば全体も変わって、「メタ正義感覚」自体がスタンダードになり、改革が進み、皆で豊かな社会にって感じです。
要約するとちょっと観念論っぽく聞こえるかもしれませんが、マインドセットを変えるための思考法とか、具体例や比喩表現やらも工夫されていて、分かりやすい本です。
最新のビジネス手法とか、機械学習のような最新技術の導入が進まないときは、コミュニケーションで解決する、というのは、アドバイスとしては有効でしょう。この手の話で、技術以前の、心情的対立が改革を阻むという例は非常に多い。
とくに面白いと思ったのは、社会問題や経営課題において、問題の存在を発見するフェーズと問題解決を行うフェーズの峻別をし、前者においては敵を全否定する論理を構成して、あわよくば押し切ろうとするのが最適解であり、解決せず後者に移行した段階で包摂的論理を再構成し、妥協、周囲を巻き込んでの実務に入るべきという説明です。いきなり後者で行くと黙殺されて終わる、というのは、たしかにそうかも、と素直に感心しました。シビアな経営者視点っぽい?
歴史的に保守と革新の対立が激しすぎる欧米ではなく、これからの時代は東アジア、そして日本が主導できる!っていうのも魅力的です。
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「メタ正義感覚」を、全ての人間が身につければ、私が言っている問題は解決するような気がします。相互理解、などという「一見優しい言葉」より、意味するところが分かりやすいかも。初手で、殲滅方法を冷静に考える、というのは面白い。
……と思って調べてみたら、倉本さんもどうも、過去には「メタ正義感覚」の代わりに相互理解という言葉を使っていて、変えたみたいです。偶然の一致、というほど偶然ではないですね。
敵と和解しろ、とかいう話じゃなく、敵を悪魔化したり、矮小化しても負けるだけ。事実をしっかり認識し、論理的に考えれば、敵は少なくとも現時点では絶対に抹消不可能なんだから、気に入らなくても、ムカついても、妥協しよう、目の前の利益を取ろう、そのためのコミュニケーションだろ、という話を、色々述べているようです。
いやー。本当にその通り。その通りなんですよ。
エリートがガンガン改革、改善を進めてくれば、このマインドセットが広がって、問題は解決。バラ色の未来。素晴らしい。この人に任せれば、私のnoteなど、もはや完全に不要か?
……しかし、どうも私、この手の話聴くたびに、非常に懐疑的な気分になるんですよね。単に私が、あらゆる対象に懐疑的になっているだけかもしれませんが。なにか、既視感と言うか。
もちろん、「メタ正義感覚」が徐々に必要な時代になっていく、それは有利だから、という予測は、大体あってるんだろうなあ、とは思います。
でも、こういう「魅力的な未来のビジョン」、過去に何度も、手を変え品を変え聴いたことあるんだけど、言うとおりに世の中変わったことあったっけ?いや、確かに変わったことはあるかもしれないけど、それって「良い方向」だったっけ?それは誰にとっての「良さ」だった?って。
皆が提言を受け入れ、努力したときの、楽観的な未来予測があり、もしそうなったら問題解決。っていうビジョンがあったとして。
そういう楽観論を限界まで排除した時、現実はどうなるだろうか、そしてその帰結が良いか悪いかという価値判断の話は、全然関係ないので、分離して考える必要があります。
もちろん、そんな予測とか、価値判断なんて人それぞれだろ、と言われれば、まあそのとおりではあるので、そこで終わりです。
以下は私にとっての「良さ」、というか一連のnoteで採用している「良さ」の観点から論じようと思いますが、そのためにはもう少し細部を私なりに詰める必要があるんですよね。
その前に、散々言っている話の焼き直しですが、改めて私の現状整理を書き、ここに倉本さんの提言を導入してみましょう。
・自由市場は常に格差を拡大し、長期的に強者と弱者を固定するが、これは金のやりとりの話だけでなく、あらゆるコミュニケーション、善悪の価値判断を含む世論のイニシアチブ争いなどにおいても同様なので、建前としての平等論と現実の格差の乖離に起因する絶対的「自己責任論」が確立、人々に内面化され、相互不信を生み、分断が発生している。価値観の選択も「自己責任」なので、自分と大きく異なる人間に対しては、完全に無視したり攻撃や排除しても道徳感情には何も影響しないのが、とくに危険。
・公論上で何を述べようが、内容より話者の価値観の相対的立場が推定され、ほとんどの人間はこれだけで賛否を決めるので、事実認識を共有することすらできない。最低限の連帯、現状変更のための合意形成に向かうこと自体が不可能。
ここに、新しく合理的な価値観、理想のビジョンに加え、十分な能力とメタ正義感覚を身に着けたエリートが、起業家、政治家として乗り込んでいって、どんどん社会を変えていこうとしたら、どうなるでしょう?
まず、起業家は、結構、成功するでしょう。単純に、価値観や文化の違いゆえに利益を損なっている状況があるなら、それを調停すれば、当然その分、利益は増えます。
しかし、政治家は、そうそう成功しないのでは?政治家は、裁量権を握りつづけるために、熱心な支援者の人の支持を、たとえ非合理的だったとしても維持し続ける必要があります。これが経済主体とは違うところですね。
起業家ならまずはステーク・ホルダーだけの調停をすればいいし、資金を自分だけで調達すれば、その分の裁量権は得られます。金と契約さえ守っていれば、自由なわけです。メタ正義だろうが相互理解だろうが、利益になるなら何でも良い。
一方、とくに現在の国政においては、ポジションを明確にし、目立ち、日和見派などと言われ排除されないよう、しっかりと単一の正義を掲げ、大言壮語する必要もあります。メタ正義的振る舞いは支持者から糾弾、失望され、落選に繋がります。実際、上述の本で例に挙げられていた、メタ正義感覚を身に着けてバランスの良い提言をした野党国会議員は、選挙で落選した後、顧客ではなくなったと書いてあります。勿論、落選の真の原因はわかりませんが、さもありなん。
例外は、従来の政治勢力の求心力が完全に消え失せているような場所の政治で、例えば行き詰まった地方自治体に改革を掲げて乗り込みたい人には、メタ正義感覚は有効でしょう。単にビジョンを上から押し付けるわけでなく、皆さんの利益になる、というふうに話を持っていく必要があります。ただ、これも、地方創生ビジネス等の動きと強力に連携、一致しなければ、絵に描いた餅です。機能不全の国政から利益分配を誘導するのは不可能なのだから、改革による経済活性化、民間経由でその地方への利益分配を狙う以外に、ビジョンを実装する方法は存在しないでしょう。
地方自治に政治家として求められるのも、お題目ではなく、具体的なビジネスに向けた制度改革を主導できる、実務能力、ビジョン、コネクションを持った人間、まさに優秀な起業家的な人材となるわけです。
つまり、メタ正義感覚が重要かつ利益につながり、どんどん社会を変えていけるのは、事実上、ビジネスの領域だけです。するとどうなるか。
……いや、価値観の分断、ますますバラバラになりません?
こう書いてみると、だんだん違いが見えてきました。
先程も述べましたが、倉本さんの描像だと、価値観の対立を新vs旧の思想の二軸対立、とくに「新」が「旧」の意見や価値を無視していることが原因で、改革が進まないことが問題としています。だから、「新」と「旧」が様々な現場で利益を元に妥協し、改革をガンガン進めていけばいい、そうすれば「両方」のいいとこ取りが社会実装、問題解決、という発想となる。
彼がとくに、米の民主対共和の政治状況や、自民党及び安倍長期政権をめぐる公的言説、それを取り巻く対立を念頭においていることに起因しているのかもしれません。
しかしまず、現在、もはや公論や、社会における価値観の対立構造自体を認識すること自体に何の価値も見出していない人々がすでに多数派であり、「新vs旧」に見える構造の中で、熱心に戦っている人々は、もはやそれ自体が少数派なのではないでしょうか。
現状維持を選択している人々は、完全なるノンポリでもなく、「社会」とはこうあるべき、というしっかりとした価値観を持ったところで自分の意見が反映されることはないので、無駄だからしない、という認識を持っている人々が多いように思われます。
その割に、彼らの中には、「社会」とはこういうものである、という、強固な認識だけはしっかりとあり、普段は、ただそれに従っている。
そんな人々が、何らかのきっかけで彼らの認識で「社会的に正当」だと直観し、社会に反映したい、それが当然だ、と思う主張を持った時、彼らがやることは、自分の価値観でその「正当性」をアピールし続けるという硬直した表現となる。その中で、なんとなく敵と、味方に分かれていくわけです。
これは、対立構造の中で派閥形成しているだけであり、「新」の中にも、「旧」の中にも、一貫し、共有された価値観自体が、存在していない。
「旧」は保守とは言い難いです。むしろよりラディカルで、先鋭的な社会思想を持っていたり、逆に何の社会思想も持っていなかったりしますが、それが少なくとも政治経由では実装不可能であるとなんとなく認識、仕方がないので世間の主流に追従している集合体、という感じです。その中に保守の残骸らしき派閥もありますが、少数派です。
「新」も、欧米の価値観を引用している人々が多いのは確かですが、私なりにネット公論を分析した限り、背後にある思想や歴史の体系的理解、社会に導入したときの帰結について真剣に考えている人は非常に少なく、自分の価値観や主張に都合のいい部分を適宜、勉強して、引っ張ってきているだけでしょう。この中でも、やはり社会思想は分裂している。
だから、状況によってはどちらの中でも対立が起き、そのときになってはじめて「こいつらは異常だ、おかしくなった」と騒ぎ始めることもありますね。実際には、違いに気づいていなかっただけなのですが。
これを社会に実装していくとは、このバラバラの価値観の分断が、現実にあらわれる、ということです。
もちろん、これはビジネスチャンスなのは確かです。
現在、分断の中、価値観の一致する人々だけで一緒にいたいという欲求、そしてさらに発展させ、それを社会に反映させたい、自分にとって良い社会を作りたい、という欲求は高いと思われます。
例えば、オンラインサロンなど、価値観を共有できる仲間自体を売り物にして客の囲い込みに動く様々な商売の出現は、この前段階だと考えられます。noteも多分、この流れを予測し、媒体として乗っかることに成功してるのかもしれません。
これが、地方創生やコミュニティ・ビジネスと結びついて、次の段階に進む、というのが、倉本さん的予測でしょう。
ここで、対話はその地方の既得権益層や、自治体などの裁量権保持者を説得するために使われる。このためにはメタ正義感覚は有用だと思います。
そうして事業が成功していけば、事業者側と既得権益者の価値観のいいとこ取りが実装されたコミュニティが、段々と日本中にあらわれてくる。
対立は緩和するかもしれません。しかし、むしろ分断は激しくなる。どちらも、気に入らないことがあれば、新しいコミュニティを建設し、移動すればいい、ということの言い換えです。一度出来上がったら、その中の住民にとっては、メタ正義感覚はそこまで必要ありません。あくまで、建設時の利益対立調停で要求される能力だからです。
この帰結は、まず、内部の利益と快適さだけを追求するスモール・コミュニティの多様化、そこに入れる人々と、何のビジョンもなく、財政も貧窮し、機能不全に陥った行政が惰性で管理する残りの領域に取り残される人々への分断、ということになると思います。これが各地方で進行する。
そして、各地方の政治的代表者は、おもにこの人口比だけで決定。国政も、それらが離散集合する争いで決まるでしょう。状況によっては勢力均衡し、二大政党が定着する可能性もありますが、現状のアメリカのような、政党やその支持者間では、ほぼ対話が成立しないようなものになるはずです。
もはや、各コミュニティ間には経済的利害以外、何の論理も価値観も共有されなくなる可能性が高い。その間をつなぐ行為は、ビジネスになるときだけ、メタ正義感覚と能力を身に着けた一部の人々が請け負い、妥協や調停をとりなす。マクロな政治の領域においては、相変わらず断絶が発生し続ける。
分断の解決のためにメタ正義が使える、というより、分断を前提としてビジネスをするためにメタ正義は必須、って感じですね。分断そのものは解決しない。解決するメリットが存在しないので。
ただ、それを除けば、多分正しい予測です。根拠は、日本以外はすでにそうなってるからです。
欧米を始めとするの先進自由国家では、経済利益だけでなく価値観の違いに起因するコミュニティの分割、それに地方自治体が取り込まれていく状況は、すでに広く出現し、分断も政治対立も固定化しています。アメリカは特にこれが激しいですが、言うほどアメリカ特有ではない。
開発独裁型国家では、特定の自治体へのインフラ資本の集中投下や個人の能力、信用度による分断が先で、コミュニティの分断に価値観の分断が追従するというパターンになっているようです。
前者では単に自由の帰結、後者は効率優先主義や分割統治の手法で、分断が生み出される動機は異なりますが、結果として現れる構造は似ています。後者は統治権力が頑強なので、分断は見えづらく、政治の停滞は引き起こされないのは強みですね。
そして、日本は、先進自由国家の中で最もこの変化が遅いタイプの国。多分、本当にただそれだけです。もちろん、速度差を生み出した原因には文化や歴史的影響があるとは思いますが、その特異性はもはや消えつつある。
まあ、普通に考えたら、これが変化していっても、まず、いずれかの分断パターンに追従するだけでしょう。
これって「良い」ですかね?
そういったコミュニティの建設にかかわり、世界を変革できる人間にとっては、やりがいがあっていい、と思います。
快適で価値観が統一されたスモール・コミュニティに入り、その「社会」を仲間と一緒に進歩させられる人々は楽しくて最高かもしれません。先進自由国家、開発独裁国家問わず、そういったコミュニティの人々の話を伝え聞くと、普通に満足度は高いみたいなんですよねー。まあ後者はプロパガンダかもしれませんが、それを差し引いてもです。
そういったものに入れない人々の日々の生活は苦痛かもしれませんが、その分、最後の希望である国政には熱狂できるかもしれない。
まあ結局、国家の外側で苦しんでる他人がいても、自分さえ良ければいくらでも快適に暮らせてしまうのが人間というものなので、その線が多少内側に来ようが、線の引き直しがビジネスになろうが、そこまで変わらないのかもしれません。外に居たいなら自由だ、中に入りたいなら努力せよ、その権利はある、というのも、まあ国境よりはマシか?
スモール・コミュニティづくりを主導する人々はエリートだろうから、倫理観に期待する、とかいうのは、だいぶ厳しいと思います。倉本さんのみんなで豊かになる、というのは、どうもこの期待からくるビジョンかもしれない。一応、私が最初の質問時点ですぐに解答したのは、主にこういった雰囲気への懐疑でした。
しかし、少なくとも海外の例を見る限り、エリート主導の新型コミュニティ形成においては、利益や価値観にあわない人間の排除はごく普通、日常茶飯事であり、日本人エリートが特別の倫理規範を持っているなどという期待は無駄でしょう。人間が「みんな」と言われて思い浮かべる範囲って、ごく狭いものです。
そして、価値観の統一、安全性や快適さを商品として追求するためには、条件に合わない人間のゆるやかな排除は半ば必要条件となります。もちろん、全て合法的に行う必要がありますが、いくらでも手はあるでしょう。利益のためのメタ正義感覚による妥協や調停は、既得権益者に対してか、微妙な条件の擦り合わせ程度にしか発揮されないでしょうね。
ビジネスとしてやるからには、そこを妥協した場合、潰れて終わり。コミュニティ間の競争を考えると、どんな美しいビジョンがあろうが、排除原則は導入されるわけです。
一応、国家全体の破綻や、社会秩序の崩壊などで脅すことはできますが、それも程度問題というか、下手すると逆効果です。
少なくとも先進自由国家群の行く末は、日本も他国もやばいやばいと騒がれ、色々と危険な予測も出ていますが、本気で人々が分断を乗り越える方向には全然向かっていません。
むしろ、漠然とした恐怖や危機を感じると、同質で利益を共有した仲間で小さくまとまりたくなるのが人情というもの。
とりあえず、私なりに、限界まで悲観的にやってみた予測をまとめます。
・分断をビジネスチャンスと見て、メタ正義感覚を取り入れ、各種ビジネス経験や最新技術の能力に優れたチームが主導となり、種々の新しい価値観の社会実装が進む。
・その結果、現実における価値観の棲み分けが進行、それは公論上のものを離れ、その影響は地方自治、企業風土、教育、とにかくビジネスレベルで実装できるあらゆる対象に実装、とくに地理的に分離されていく。その中は快適になるが、その外は放置。
・メタ正義感覚は、その棲み分けされた社会を渡り歩きたい人には必須スキルとなり、普及する。
・ただし、国政のようなマクロな政治では利益対立の調停は相変わらず難しく、多数決合戦に終止する。
まあこんな感じでしょうか。楽観を削ぎ落としてみると、わりと妥当な未来予測?
ただ、本noteではこれをとりあえず「良くない」状況とします。
過去に何度か言ってますが、これで「良い」なら、すくなくとも民主主義や政治、公論の現状は、一切問題ない、というか過去を含めて一度たりとも、なんの問題も発生していません。
これでも別にいいじゃん、と思う人は、日本や世界の民主主義の現状について思考するのはやめ、時間を無駄にすることなく、自分の人生を生きた方がずっと良いと思います。それも一つの解です。決して悪いことではない。
じゃあ、何が良くないの?問題は何で、解決方法は何か?
しつこいようですが、「そもそも論」をもうちょっと詳しくやる必要があります。
コミュニケーション、政治、メタ正義感覚におけるマタイの法則とハイパー・メリトクラシー
一応、誤解のないように言っておくと、営利行為で世界を自分の変えたい方向に変えようぜ、というのは、私は非常に有効な提言だと思っています。それ以外は論外というレベルで。
こういうと、金儲け主義か!って思われる方もいると思うんですけど。
とくに先進国で、秩序を保ったまま社会を変更することは、利益が継続的に入り、かつ、ある程度の努力で再現できる行為でない限り不可能レベルで難しい、というのは動かしがたい事実です。
暴動で全てぶっ壊す方向なら、経済的利益がなくても社会に十分な不満さえあればできますが、個人でコントロール可能なものとは言い難いですね。
みなさんも、世の中を変えたければ、起業するか、頑張ってお金を稼いで、誰かに出資しましょう!
……じゃあ、ヒラヤマ、お前はなんで、ちまちまnoteなんか書いてるの?今すぐ起業するなり、努力して売れる本書くなりして、世界変えろよ!って感じなんですが。
ここが難しいところです。
異なる価値観同士で対話を成立させ、全体の利益調停が機能するように社会を変えるぜ!的なものを掲げて起業するとか。……なんか、n番煎じ感もありますが。それだと、うまく行かないんじゃないか。
そもそも問題は、価値観同士の調停方法と経済活動を一体化させると、ずっと絶対的な「格差」が出現して、分断が酷いことになるんじゃないか、というか、なってるじゃん、今起きてるのもそれじゃん、という。
「持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう」
この、聖書の一節から取られた、マタイ効果、マタイの法則とか呼ばれている、有名な法則があります。これは、宗教の話ではなく、様々なゲーム、取引、ネットーワーク・ダイナミクス等に普遍的に見られる現象論です。
例えば、金持ちはより金持ちになる。これは経済学の大原則として紹介されることが多いですね。「平等なルール」で長期間取引し続けると、結果は不平等になる。数理モデルでも、実証でも、ほぼ必ず発生する現象です。
しかし、マタイの法則は、お金のやり取りより、それを介さないコミュニケーションにおいて、ずっと苛烈になるのではないか、というのも、まあ私が一連のnoteで何度か主張してきた話です。
これは必ずしも能力差の問題ではありません。一度、コミュニケーションのイニシアチブを握る立場につけば、あとはコミュニケーションの正しさを定義し、判定できる権利を得られるので、逆転が不可能になる、という構造があります。
これがどの程度「科学的事実」なのかは微妙で、認知脳科学とか、ネットワーク科学のようないくつかの学問では研究されてますが、まあ付け焼き刃でそういうのを紹介するとボロが出るので、やめます(笑)
興味ある人は調べてください。
事実認識としては怪しいかもしれないですが、以下のような感じ。
例えば、ツイッターでは、弱小アカウントの発言は全く拡散されないので、フォロワーが増づらい一方、アルファと呼ばれる、フォロワーがすでにたくさんいるアカウントの発言は、多くの人の目に止まり、それ故に、フォロワーは増えやすくなります。
そして、アルファの価値観、興味関心は、皆が読むので、その内容の妥当性に関わらず、議論の中心、思考や賛同、批判の起点になります。
すると、ますます、すでにある価値観を前提に発言することが要求され、それから離れた意見は無視されます。弱小の発言は聴いてもらえず、意見は公論に反映しません。
ネットで議論して世論を動かそうと頑張っている方もいるかもしれませんが、弱小ならほぼ意味はない。フォロワー数の差が百倍あったら、影響力の差は百倍では効きません。発言がネットワーク構造を伝播する中で数万倍、いやそれ以上に増幅されます。
これはツイッターが特別に悪いとか、ネットが悪とかそういう話ではなく、媒体を何にしても変わりません。自由に見る対象を選べると、ネットワーク構造の繋ぎ変えが発生して、自己組織化的に、同じような構造が発生します。政治を動かすネットワークも同じようなものです。
お金を一円たりとも稼げない人、ってそれほど多くないですよね。でも、事実上、誰にも話を聞いてもらえない人は、いくらでも居ます。下手すると、話を聞くだけで金を取られるとか。
さらに、経済的に生きていけない人に、生活保護とか、お金を配るシステムは、どれくらい機能するかはともかく、簡単に実装可能ですよね。
一方、発言権の最低保証は、めちゃめちゃ難しいです。たとえば、現在のそれは選挙権ですけど、これって、まあ機能しません。
選挙を動かしているのは、政治家の意見とマスメディア、その他公論上で特別に目立っている意見であって、それで大勢が決まってしまう。
これの何が問題か。
そもそもなぜ、政治が必要か。とくに、規制や再分配など社会主義的政策をする必要があるのは、自由や経済だけに任せると、格差が広がりすぎて色々問題あるから是正しよう、というのが、現代的理解ですよね。
ところが、政治も、普通にやったら、「政治力の意味で」、格差を広げます。政治力が強い人間たちは、どんどん強くなる。
これ自体が即、悪いわけじゃないです。政治と経済で、勝者と敗者の条件が全然違えば、打ち消し合って上手いこと行く、かもしれません。
マタイの法則に抗うには、ゲームの複数化、多様化、分断化によって、あるところでの敗者が、別のところで勝者になるような構造を作る必要が出てくるはず。わたしの主張したい、政治の目的とは、端的に言えばこれです。
しかし、これが結構、というかかなり難しいんですよねー。
例えば(やや科学的事実としては議論の余地のある話ですが)、人間の嫉妬心は、群れの中での勝者が勝ちすぎないために、敗者が無条件で団結して勝者を脅かすために進化的に獲得された、という説があります。
狩猟など資源獲得競争だと、強さや、狩りへの貢献率の勝敗が歴然としてしまうわけですが、敗者が勝者を恐怖で脅して、分前を等分にしろと迫れる仕組みがあることで、協力の余地が大幅に広がり、群れ同士の闘いで有利になっていった、という。
これは一種、政治の起源、とみなすことができるでしょう。資源獲得競争の領域に対し、感情闘争の領域という敗者に有利なゲームを設定することで、全体でバランスすることが可能になります。素晴らしい。
しかし、嫉妬心というのはあくまで感情、自分の意思ではコントロール不能なので、現代では容易にハックされてしまいます。弱者のほうが公的扶助が受けられてずるいとか、特定の属性が有利でずるい、とか。それが事実かどうかは関係ありません。そして結局、こういった感情闘争も、経済的成功の条件に回収されて終わりです。
複線化したはずの各種ゲームの一体化、これが現在起きていること。これを説明する言葉はとっくに色々発明されてます。
たとえば、メリトクラシー社会からハイパー・メリトクラシー社会への移行、という言い方で、日本の教育学者、本田由紀さんによって2005年に提唱されています。
そもそも、メリトクラシー、能力主義というのは、merit(ラテン語から 能力、業績)とcracy (ギリシャ語から 支配)をあわせた造語で、知能指数と努力で全てが決まるディストピア未来社会を風刺するためにイギリスの社会学者マイケル・ヤングが作った言葉です。そんなものはクソ社会だと。
でも、今は普通に個人の能力主義社会で何が悪いの?それって当たり前では?って感じですよね。メリトクラシーは、悪い言葉ではなくなりました。
この「能力」として、知能指数だけではなく、立振舞い、人格などなど全てが要求され、あらゆる成功と一体化するから、ハイパー・メリトクラシー社会だ、これはメリトクラシー社会より苛烈で危険だろう、というのが本田さんの提言だったのですが……。
ぶっちゃけ、それの何が悪いの?っていうのが現代人の感覚ですよね(笑)
もう我々は、ハイパー・メリトクラシーすら、内面化してしまってます。
当時、主に言われてたのは、ペーパーテストによる学力フィルタリングから、総合的な人間力のフィルタリングへと進むから、就職格差が広がってやばいよね、ぐらいの話ですが。どうもその程度では済まなそうですね。
ここに、メタ正義感覚を、素朴に、経済的利益を餌に普及、導入しても、ハイパー・メリトクラシーとして要求される能力に、メタ正義感覚を追加されるだけっぽいような。
当たり前といえば当たり前ですが、メタ正義感覚の普及自体も、マタイの法則に従い、経済的不平等の拡大と連動していくでしょう。一応、くどいようですが、これも説明します。
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まず、メタ正義感覚ってどうやって身につけるか。
身に付けろ!って言われて身につくもんでもないですよね。倉本さんの本では、色々訓練方法が書かれていましたが。
これに関しては、私は結構、自信があります。倉本さんはさらにそうでしょう。それはなぜか?単純な努力の問題ではありません。
心身に余裕があり、対立し分断されている、様々な文化や価値観の背後にある歴史や文脈を調べ、ときに飛び込み、好きな時、自由に出ていくことのできる人間だから。それが面白いと思える、恵まれた人生を送ってきた。
ゆえに、仮に自分が対立に巻き込まれたとしても、その経験を用いることができる。それだけの話ですね。
一度できるようになれば、いくらでも「多面的な視点」を取捨選択しつつ獲得できるし、それ自体を趣味として楽しむことも出来るようになります。
しかし、このマインドセットは、誰にでも獲得できることか、といえば間違いなく否です。
例えば、諸外国の文化の調査ひとつとっても、そう簡単な話ではない。現代の日本社会や、広く先進自由国家では許されないような「非人道的」な文化が現在でも普通に行われているようなケースは、いくらでもあるわけです。
他にも、インターネット上の差別発言やら、陰謀論なども、内部で先鋭化していくことで特異な発展を遂げ、被差別当事者どころか一般の方すら、見るだけでも嫌だ、となってしまいそうな物も、多くあります。
そこまで行かなくても、自分の常識から大きく外れた文化を目にしたり、考えるだけで嫌だ、怖い、となってしまう人も居るでしょう。
こういったものに出会った時、感情的反発を抑え込み、まず文脈を調べ、対処方法をなんとなくでも考案できるか?それを教育などで誰にでも身に付けさせられるか?
ま、難しいと思います。というかいきなりは無理。
段階を踏んで、しっかり訓練すれば、いけるかも。しかし、そうやって色々能力を教育して、みなどれくらい身に着けたか、と言われると……。
私は、そういうものの歴史的経緯や、現状を調べること自体を、いくらでも楽しめます。しかし、そうでない人々は多い。
歴史や文脈の理解と、対象への好悪の感情や、賛否を切り離せる。そして、それ以前に、知らないものがあったら、まず分析し、理解をしてみよう、と考えられる。それ自体に大きな苦痛や苦労は感じない。これは、ほとんどの人間は身につけていない、というか身につけられないマインドセットでしょう。自分ならできる、と思いこんでいる人は多いかもしれませんが。
この分断は、できる人の側から見ても、しばし見落とされがちです。これも教育、とくに高等教育での建前論と現実の乖離が原因の一つでしょう。
各種の自由に支えられた、文化的に多様な社会というのは、お題目は美しく、皆なんとなく受け入れている、気がしてしまいますが、実際にはその自由のもたらす衝突に耐えるための、個人の努力を常に要求します。もちろん、高等教育を多少なりとも真剣に受ければ、これは自由主義の前提であることは理解できるはずです。
しかし、それは当たり前の話、大前提だ、言うまでもない、という文化自体を内面化してしまうと、いざインターネット公論などで、「異文化に耐えられない」人々に出会っても、努力が足りない、能力が欠如している、異常に繊細過ぎる、という風にしか認識できない、というパターンは多いです。
恥ずかしながら、私自身も、その昔、インターネットで他人の意見を読むようになって最初の1年ほどは、「なぜこの程度のことができないのか?学校で習うよね?」とわりと本気で考えていました。教育格差や能力格差などについては、ある程度の理解があったつもりで、これだけ喧伝されている自由主義というもの自体の本質が、ほぼ何も理解されていない、という可能性には思い至っていませんでした。
ともかく、メタ正義感覚自体が、すでに多くのものを要求している。これを持っている、持とうと考えられ、努力できる人、という時点で見えざるフィルタリングとして機能するという側面がある。
次に、メタ正義感覚によって利得を得られるか、それ以前に損をしないかどうかにも、不平等さとその拡大の構造があるわけです。
もし周囲にいる人、家族や友人、利害関係者等が均質で、画一的な価値観を持っている時、対立に際して、不用意にメタ正義感覚を前提として持ち出した場合、嫌われるか、異常者として糾弾される場合もあるでしょう。せっかくの萌芽は潰される。
逆に、はじめからメタ正義感覚を持っている文化で育てば、対立に直面しても、自分を保ちつつ、取捨選択しながら、少しずつ世界への理解を高め、成長という恩恵を受けることができる。多文化を行き来できること自体を能力として、成功できる道も拓ける。
さらに、なんらかの派閥が対立している状況においては、その他の能力や権威があれば、調停者として利益を確保出来ますが、なにも持っていない人間が持ち出しても、日和見派、どっちもどっち論として単に無視されて終わりでしょう。
こういった差は広がる一方で、経済的成功のために必要な、様々な能力と相関しそうです。
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うーん。
メタ正義感覚を皆が身につければ解決。ってのはその通りなんですよ。お互いそれを持ってれば、広く協力できるから得ってのも正しい。
でも、それが出来ないやつを陰に陽に無視して、内輪で協力する、という解にしかならなそう。その方が楽だし。
いや、単にコミュ力を鍛えよう、とかではなく、価値観の多様性と敵対構造に言及している時点で、正しい発想だとは思うんですが。
それでガンガン社会を変えていって、いいんでしょうか。
しかし、ここまで頑張って批判的に書いているうちに、実現可能性も考えれば、まずこれくらいで見切り発車するのが限界、という気もしてくるんですよね。
結局、なんとかメタ正義感覚の重要性を、それが身に着けるのが困難そうな人々に身に付けさせる方法の発明、提案、っていうのが、必要な解決策だとは思うんですが。
まあこれは、次回以降の課題ということで……。
分断を乗り越える、とは?
結局、自己批判も含めて言うと、ゲームの不平等を解消するために、更に複雑なルールや技術を追加しようとするというのは、その時点でな~んかちょっと絵空事感があるわけです。
当たり前といえば当たり前。どんなルールでも、個人として分断されて、自由に利益争奪、善悪の定義ゲームを行う限り、マタイの法則から逃れることは不可能です。
このゲームの単なる追加ルールとして政治、公論が扱われたら、話は終わりです。まあ、世論を見るに、終わりかけているわけですが……。
政治闘争では、経済弱者側が少なくとも過半数を占めることで強者に勝ち、利益分配を迫ることが最大目標なので、そのためになら他の一切を妥協し、手段を選ぶな、団結しろ、ただしやりすぎるな、強者側の完全支配や殲滅は不可能なんだから侮るな、適度にやれ、的な描像を、弱者側が、何をおいても最初に内面化する必要がある。
これができれば、すくなくとも経済の領域においては、ごく少数派である勝者と残りの敗者の利益対立が存在するので、バランスできるはず。
分断を乗り越える、なんて本来、この程度の話、妥協の産物なんです。そんなに素晴らしいことではないし、逆に絶対不可能でもないはず。
しかしこれがまた遠い。世界は、日本は、人類は、中々これができない。
現代においては、政治やそれをとりまく言論が、善悪や、感情対立、不公平感、仲間意識、好き嫌い、願望などとすぐ融合し、すり替わってしまうのが、困難の本質の一つです。
政治領域で妥協したからと言って、普段から友達として仲良くする必要はありませんが、人間にはやっかいな仲間意識、敵対意識というものがあり、仲がいいんだから対立はご法度だ、とか、逆によく知らない相手、嫌いな相手、ちょっとでも不快な相手とは交渉や妥協もしたくない、政治的な挨拶や礼儀に従うのも嫌だ、などと思ってしまう。
悪人を味方から、社会から排除したい、などという素朴な善悪判断を内面化するう人も多い。そもそも政治における派閥は、善悪以前の話、全ての外側の利益対立、ということを理解するのは難しいし、社会から特定の誰かや思想を排除するなど、もはや出来ないことを理解することも、どうやら難しい。
細かい政策レベルの違いを妥協できない、という贅沢な悩みを捨てることも難しい。冷静に考えれば、政権を取る側につかない限り、政策は何一つ実行できないのだから、社会保障や利益分配変更をぶんどるまでは、それ以外は余計なことを言わず、現状維持でいいはずです。まず多数派側になれなければ、何も始まらない。それがわからない。
下手にいろいろなことを知った気になると、外交政策やら、教育政策やら、中間層と低層、同層内の利益対立やらで、不公平感、社会思想が優先されてしまう。本気で社会実装を考えていると言うより、それらは夢想に近い。聞きかじりで、真剣に考える能力もない。分からないまま保留するという態度も取れない。だから議論も、妥協もできない。
特定の愚かな誰か、ではなく、皆がこう。厳しすぎる状況ですね。
ただ、政治や社会への絶望や不信が主体でこうなっているパターンと、社会の安定性への過信、他者への見下しに起因してこうなっているパターンがありそうで、前者は、現実に見える希望、変わっていく社会の一部さえあれば、なんとかなるのかも?
そう考えると、倉本さんのような希望溢れるストーリー、そしてそれが実装されていくという事実は、もしかしたらすごく効果的、かもしれません。
彼以外にも、現状解決のために色々考えて、それぞれの結論にたどり着き、全力で行動している人々はたくさんいるのでしょう。
うまく行かないかもしれないけど、現実を変更できるのは、絶望的な現実を自分なりによく認識し、しかし希望を捨てず行動する人々だけです。
まあでも、それを半歩引いて応援しつつ、私はもうしばらく、批判中心、自己満足、趣味の領域にとどまろうかなあ、と。自分の中で意見が収束し、書くことが尽きてくる気はしますが……。
批判なら誰でもできる。これは悪いことではありません。焦ったり怒ったりする前に、何はなくともまず批判。それは、他人や自己を攻撃するためではなく、立ち止まって冷静に考え、自分の糧にするためですね。私自身、色々と焦りがちな人間なので、気をつけたいと思います。
実際、批判文を書こうとするだけで、色々調べる動機になるから、中々いいような気がするんですが、やはり暇人以外にはどうも勧め難い。結構時間食うので。とりあえず皆さんの代わりに私がやっておきます(笑)。
しかし、悲観主義的視点に立つ批判と、悲観的な気分を切り離すというのはやはり大事だと思うので、こういう「なんかうまくいきそうな活動」は色々紹介していきたいですね。
百歩ぐらい引いて、気楽に本noteを読んでいただければと思います。ひきつづき質問等も歓迎です。
よろしくおねがいします。