人々は「理論」で連帯できるのか?:社会運動は今、なぜ無力なのか 後編

前編では、社会運動における連帯の失敗の典型過程を描写し、理論、つまり社会問題に関する直観を説明する統一的な世界観と行動規範の構築という発想自体に問題があるのではないかと述べた。

もちろん、理論の構築は、個人の直観の集合でしかないものを批判的に再検討し、世界観の描像をなるべく客観的なものとするためには有効だ。また、それにより、権威を手に入れることで政治力を確保するという効果もある。

だが、それはあくまで社会運動自体の拡大、社会的弱者の政治力の形成の手段であって、目的ではない。それなのに、むしろ理論の存在が、その目的をむしろ妨害し、崩壊を誘発する原因にもなる。

とはいえ理論自体を完全に放棄すべきだ、とは言わない。デメリットが大きい上に、まず実行不可能だ。だが、理論の外部に対する位置付け方を変更することで、主張する内容を弱め、反対可能性を確保しておくことで対立の激化を回避できる、と私は考える。

以下で説明を試みたい。

行動の基準としての「理論」のもたらす対立

社会運動の理論には、近代以降の人間観、人間の事実認識・価値判断・行動決定に関する、理想状態の描像が暗に仮定されている。簡略化して書けば次の図式だ。

(正しい世界観+良心的な行動規範+個人の価値判断)→正当な行動

近代以降の社会運動は、正しい世界観を確定し、それを前提に良心によって行動規範を選択し、個人の価値判断を律することで、正当な行動がなされるという描像を暗黙のうちに最終目標としている。一見するとこれは妥当なように思われる。

しかし、実際には人間はこのように垂直的に認識・思考・行動をしていないし、するのはまず不可能と言える。

とくに、世界観はむしろ、自分の価値判断にとって気に入るようなものを無意識に選別するのが常だ。

極端な例であれば、保守的なキリスト教信者はどんな証拠があっても進化論を否定するだろう。世俗派や無神論者はこれを認知の歪みと断定するが、自身の歪みに気づけるとは限らない。

SNSでずっと「論争」が続いてる、感染症対策の科学的知見などにおいては特に顕著だろう。人間は、自分の信じたい結論が先にあり、それを補強する証拠を集めるところから思考をスタートする。

もちろん、科学者は証拠が十分あつまれば仮説を棄却したり、結論を変更する事もできるが、それもあくまで科学的に思考したいという価値判断が先であり、かつ何が科学的かを最終的に決定するのは科学者自身しか居ない。まして一般人は、科学者の真似事をして、自分の欲しい事実の正しさを信じようとあがいているにすぎない事が多い。

正しい世界観、というのは実際のところありえない。もちろん、より妥当な世界観というのはありうる。だがその妥当性の根拠は理論の外部にある。科学なら実験や観察事実で、頑張って人間から切り離すこともかろうじて可能だが、社会運動の場合は根拠自体が人間の直観、価値判断なので、それは不可能だ。ましてや、正しい世界観を全員が共有するというのは、単なる理想モデルを超えて妄想といえる。

そして、前編で描写したような様々な問題の起点はここだ。世界観行動規範価値判断が全ての行動の基準と前提されているために、それが最大争点になることで、かえって正しさの変更に対する合意可能性がなくなる。

上の描像に従って他人の行動を批判するとき、対象は「背後にあるはずの」世界観行動規範価値判断のいずれかだが、これを批判することは非常に強烈な不和の引き金となる。

あなたの世界観が間違っている、認知が歪んでいる、勉強しろと言われて、素直にそれを変更しようと努力する人間は、社会運動以前に詐欺に気をつけたほうがいい。まずそれを言ってきた相手の認知や動機の方を疑うべきだろう。もちろん、本当に世界観が間違っている可能性は常にある。だがそれは全ての人間の問題だ。

行動規範が間違っている、倫理的でないと非難された時、とりあえずそんなことを言ってくる相手の規範こそを問い直すのが安全だ。もちろん、あなたが法人の代表者ならとりあえず規範にしたがうポーズを見せたほうが得だろう。だがたとえば戸別訪問で倫理的になれと訴えかけてくる相手に頷けば、カルトの教祖に帰依する羽目になる可能性のほうが高い。

価値判断がおかしい、というのはもはや批判というよりも、相手とは応答や交渉が出来ないと宣言しているに等しい。価値判断を後天的に変更するには治療や訓練が要求される。他人に課そうとするのは洗脳といえる。

殆どの人間は、言語化出来ているかどうかは別として、上記の事実を直観的に理解しているために、これらを強力に批判されたら、逆に批判者側の世界観・行動規範・価値判断を全面的に却下して応答を拒絶する。

無論、それでも批判は重要だ。批判されること、また人々の相互批判を観察することによって、自分と異なる相手と接触し、自分を疑うことが可能になる。これこそが公論の真の価値とも言える。しかしこれはあくまで、自分を疑う動機、安易な批判に動じない心の余裕、安全な立場を持っている人間が受けられる恩恵だ。

一歩間違えば、批判は他人の行動を操作する攻撃材料になる。ゆえに全力の反撃を引き起こす。これはたとえ形式的に瑕疵のない批判でも同じだ。残念ながらこの構造を逃れるのは不可能に近い。

一般には仕方がないとはいえ、社会運動の当事者、特に社会的弱者にこれを相互に行うことを連帯の条件として課すのは、厳しすぎる要求をこえて無理難題と言えよう。この無理難題の帰結は前編で描写したとおりだ。

以上より、理論、つまり世界観や行動規範は、正しい行動の基準としての地位を自ら降りるほかない。つねに、断片的な人々の直観を批判的に検討するための補助の位置に留まるべきであり、行動の正当性は必ずしもそれとは関係ないものだとする必要があるだろう。

行動の直接合意形成システム

もちろんこれだけでは合意形成ができなくなる。社会運動の政治力を確保するためには、どうしても必要なことだ。とくに重要なのは、全体の行動、政策提言への合意だが、これを世界観と行動規範の統一によって為そうとしたのが失敗の原因であった。

最終的には多数決に頼るほかはないが、それだけでは内部での少数派の弾圧や分離を招いてしまう。少数派の意見自体は全員が認識しつつも、多数派が賛同できるような意見を選択できる仕組みが要求される。

例えば、実際に稼働している実績のある、vTaiwanというSNS型の政策決定プラットフォームをヒントとして引きたい。運営主体はg0vという台湾のオンラインコミュニティだ。

私自身完全に理解しているとは言い難いが、合意形成システムの核となる部分だけを書き出してみる。

・まず議題を最初に提示。資料などはスライド形式で添付する。

・議題に対して政策提案・行動選択など、人々の意見を集める。議題に関する全ての意見を、その近さなどに応じて図示する

・意見に対する直接の批判・反論コメントはシステム上不可

賛成・反対投票は常に可能で、その趨勢をみて意見を修正、これを複数回、大多数の人間が賛同できる意見に収束するまで繰り返し、おおよその合意形成を済ませる

・これらの合意形成された意見を前提として、討論や相互批判を行うのは意思決定者同士のみで、ライブ配信かつ議事録を作成

・そして最終的に共同提言などのアウトプットをまとめる

という興味深いシステムになっている。私自身このシステムを深く理解しているわけでも利用したことがあるわけでもないが、コンセプトに頷ける部分は多い。

重要なのは、合意形成の場で全員が議論を重ねても物別れに終わる以上、合意形成と議論は分離したほうがよく、そして合意形成は議論以前に行っておくべきであるという発想だと思う。

もちろん、こういったシステムの運営主体をどこにするか、アカウントの発行対象をどうするか、アクセスできない人間への対応など、特定の社会運動に限るとさらなる問題も発生するだろう。

本論から外れるが、vTaiwanの設計はもう少し個人的に精査して、記事を書いてみたい。

「学問と政策の分離」再考

私の主張は、学問と政策の分離の古典的な話の焼き直しだと思われるかもしれない。だが、むしろ個人の努力ではそれが不可能だという観点からの提案である。

社会運動に限って言えば、学問が理論、政策が行動に対応すると言って良いだろう。

古典的な話を素朴に対応させると、世界観をなるべく客観的に確定させることで、行動規範を良心によって選択できるようになり、全ての人間が責任を持って行動を決定することが可能となると考えられてきた。

だが実際には、他人の行動の責任を問い、自分の行動を正当化するために他人の行動規範と世界観を攻撃したいという欲求が発生し、理論家もその目的に意識的・無意識的に従うため、世界観と行動規範政治闘争の場となってしまい、客観性とは程遠いものとなった。

これは普通の人間にとってはかなりのストレスになる。言わば自我の基盤となる部分が攻撃されることになるからだ。誰にとっても運動自体を忌避する原因となる。

結局、個人レベルで理論行動を分離することは不可能だ。正確にいうと、どこまでが客観的な理論で、どこからが主観的な意見なのかを、対立する他人に示し、納得してもらうことが不可能だということが、様々な対話を観測してきた、私なりの結論である。

ゆえに、個人レベルの努力を諦め、集団全体での行動の分離のみを目標として下方修正するしかないだろう。つまり、全体としての行動への合意プロセスだけをシステムによって分離することで、内部闘争をなるべく簡潔に済ませることが要求される。

社会運動に限らず、民主主義的なシステムの理念は、内部での政治闘争を過小評価することによって語られてきたと言って良い。それが、むしろ闘争領域の無制限な拡大を招いたのではないだろうか。

はじめから絶対的な対立と闘争を前提とし、その範囲をシステムによって制限しておくことこそが、連帯の可能性への道だと私は考える。

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