#8 五郎さんがえらくこだわってるモネと後妻アリスの関係を深掘りしてみたら… 当時のブルジョワ社会の解像度が格段に上がった!
散逸と戦略 : 最終売り立ての行方が見せた明暗
1878年4月6日にオシュデ氏の破産が確定すると、彼のコレクションは競売にかけられ、散逸していくことになります。競売は同年6月5日と6日の2日間、これまでと同じパリの競売所オテル・ドルオーで開催されました。しかし、今回売却されたのは、オシュデ氏が自ら選んで手放した作品ではありません。破産に伴い、強制的に手放さざるを得なくなったコレクションです。
カタログの題名には「裁判所命令による競売」という物々しいタイトルが記され、競売人はデュブール氏、査定人には画商ジョルジュ氏とプティ氏の名前が見えます。かつてのカタログにあった序文は省かれ、競売自体は2日間にわたるにもかかわらず、事前展示は6月4日の午後1時から5時のわずか4時間のみでした。
競売に出品されたのは138ロット。その内訳は、近代絵画が98ロットで最も多く、古典絵画10ロット、水彩画や版画、写真などが9ロット、インドの水彩画8ロット、大理石とブロンズの彫刻が各1ロットずつ、家具その他が11ロットです。
1875年のコレクション売却時に、価値の高いサロン系やバルビゾン派の絵画を放出してしまったためか、今回の競売では高値がつきそうな作品は品薄です。5桁の値がついたのは、テオドール・ルソーの「ベリー地方の湿地」(1万フラン)の1点のみで、4桁の値がついたのはバルビゾン派のディアズの4点を含むわずかな作品でした。その他のほとんどは数百フランで落札されています。
2日目に売却された印象派の作品に至っては、さらに厳しい結果となりました。
マネの作品はそれでも比較的評価が高く、平均価格は500フランを超えましたが、1,000フランを超える作品はありませんでした。問題は、オシュデ氏が購入時に支払った金額と落札価格の差があまりにも大きいことです。たとえば、「街の女歌手」(1862年、ボストン美術館)はデュラン=リュエルから4,000フランで購入したにもかかわらず、競売では450フランで売却。同じく4,000フランで購入された「マホに扮する若者」(1863年、メトロポリタン美術館)は650フランで、オペラ歌手で美術蒐集家のジャン=バティスト・フォール氏が落札しました。また、「1866年の若い女性」(メトロポリタン美術館)は、2,000フランで購入したものが700フランで銀行家アルベール・エヒト氏に渡っています。
ここまで買い叩かれると、オシュデ氏の胸中を思わずにはいられません。
一方、モネは非常に賢明な行動を取っていました。競売の査定人であり、オシュデ氏に対して7万フランの債権者でもあったジョルジュ・プティ氏に依頼して、いくつかの作品を代理購入してもらっていたのです。競売の12日後、モネはプティ氏に「買い手が見つかったと思われるので、私のために買い戻してくださった絵画をこの使者にお渡しください」と書き送っています。
モネの作品はカタログ掲載の12点と未掲載の4点で構成され、最高値は「サン=ジェルマン=ロクセロワ」(1867年、ベルリン・旧国立美術館)の505フランでした。他の作品は数十フランから200フランの間で落札されました。4年前にオシュデ氏が800フランで購入した「印象、日の出」は、わずか210フランで、ド・ベリオ医師が落札しています。
他にも、メアリー・カサットが「トルーヴィルの浜辺」(1870年)を200フランで購入、フォール氏は「ウェストミンスターの脇のテムズ川」(1871年、ロンドン・ナショナルギャラリー)など3点を430フランで落札しました。一方、蒐集家ヴィクトール・ショケ氏は「花の中の女性たち」など2点を157フランで購入。この低価格にモネは不満を覚えていたようです。
とはいえ、モネの16作品の平均価格は155フラン(カタログ掲載作品は184フラン)で、画家の市場価値を大きく損ねるものではありませんでした。これに対し、シスレーの平均価格は114フラン、ピサロはさらに低く、100フランを超える作品が1点もない惨状でした。
競売の総収益は6万9,227フランと、オシュデ氏が支払った金額を大幅に下回る結果となりました。オシュデ氏に今回の競売の対象となった作品の多くを高値で売っていた画商デュラン=リュエル氏は、この競売に参加しませんでした。オシュデ氏は競売市場で買い叩かれたのでしょうか? それとも、デュラン=リュエル氏が提示した強気の価格が、このような結末を導いたのでしょうか?
競売からわずか2週間後、オシュデ氏は禁固刑1カ月の判決を受けます。しかし、彼はそれでもなお取引を続ける道を見つけました。1カ月後にはモネの「サン=ドニ街、1878年6月30日の祝日」(1878年、ルーアン美術館)を100フランで購入し、数日後には200フランで転売するという手腕を発揮しています。破産してコレクションを解体されても、禁固刑を受けても、オシュデ氏の芸術への執念と取引の執拗さは衰えていなかったようです。
こうして、財産整理が一段落した頃、オシュデ家とモネ家は、ヴェトゥイユという小さな村で奇妙な共同生活を始めます。そこでは、再起を図る人々の思惑が複雑に絡み合い、芸術と取引の物語が新たな形で展開していくのです。
次回はこの共同生活の背景と、そこで生まれた新たなドラマを詳しく見ていきます。ここまでお読みいただき、ありがとうございました。