花と散る言の葉
散っていく花を眺めては惜しむたび、ふと思うことがあるのです。
散るな散るなと強く願ってしまい、もし花が散らなくなったならば、誰が足を止めて空を見上げるのでしょう。
とは考えてみるものの、花は人の目に焼き付くため美しく咲き誇るのではありません。たとえ空を見上げる人がいなくなってしまっても、咲き誇ることをやめることは決してないのです。
けれど、言葉はどうでしょうか。
人の目や耳を通じて想いを伝えるために生まれてきたそれらが、役目を果たし誰からも求められなくなったなら…
そこにあるだけの何かに成り果ててしまったなら…
生まれてきた時と何も変わらないまま残骸と化した言葉たちは、自らの終わりを悟ることができるのでしょうか。
人の亡骸が野に朽ちることを、人は憐れに思うでしょう。
けれど、言葉たちの残骸には目もくれず、また嘆き悲しむこともないのです。人と人とを繋ぐ最も大切な役割を担っているにもかかわらず。
腕が折れたら物を掴めた幸せに気づかされることでしょう。
脚が折れたら地を踏めた幸せに気づかされることでしょう。
目が潰れたら字を読めた幸せに気づかされることでしょう。
耳が破れたら音を聴けた幸せに気づかされることでしょう。
口が裂けたら言を紡げた幸せに気づかされることでしょう。
日々、幾千、幾万、幾億の命が生まれては残骸と化していくこの世界でただ、人より多くの残骸を生み出し続けることが苦しくて仕方がないのです。
永遠に残骸と果てない言葉を紡ぎたいという思いとは裏腹に、ただただ過去の残骸が高く積み上がってしまいます。
花は散るからこそ視線を攫うほど美しいのです。
それなら、言葉も散らせばなお美しくなるでしょうか。
消えない消せない残骸たちの無念を抱きながら、それを確かめたいのです。
願わくは、花と散る言の葉が人の視線を攫い、天に還りますように…
約1年の時を経てあなたが書いたこのメッセージを偶然手に入れることができたのは、あなたの言葉が好きだった人たちのやさしい繋がりから届いた便りからだったけど、いつもお決まりの「例えば…」という書き出しからではなく、どこかやさしさと切なさを感じさせるあなたの言の葉は、簡単に情報発信できる世の中において、この刹那も言葉を紡ぐ大切さを改めて考える切欠を与えられたような気がします。
そう言えばもうすぐ七夕ですね。
こうしてわたしはまた書きはじめましたが、いつかこの小瓶があなたのもとへ届く日が来ることを信じて…
星に願いを
ひなたぼっこ