遠藤周作「深い河」感想
なんでも簡単に答えが出る
ような気にさせられてしまう世の中に生きている。きっと今私たちが苦しんで生み出している音楽も、もう少し時間が経てばテキストから簡単に生成されてしまうのだろう。そんな未来を思うと、今苦しんで、たくさん勉強して、寝ずに作業している私たちって滑稽なのだろうかという考えが頭をよぎる。これだけ時間をかけたり、苦しんだとしても、納得のいくものが出来上がる保証があるわけでもない。きっと今より少し先の未来では、「〇〇風のビッグバンド」みたいなテキストを打てば、簡単に楽譜が生成されて、そのテキストを打つことが上手な人たちが音楽家であるという顔をするのかもしれない。これは実際に絵画の世界では起きていることなのだから、音楽にだってその技術が広がるのは時間の問題である。
それでもきっと、私たちはしつこく自分の手で音楽を作り続けるのだろう。なんでも簡単に答えが出るわけではない、ということを、産み出す苦しみを経験した人たちは知っている。何よりも人間の可能性は、人間が一番知っている。その苦しみだって少し楽しんでいる自分がいることを、私は知っていた。昨晩疲れてベッドに入って、溶け出すくらいの光を孕んだ月を視力の悪い目で眺めながら、ぼんやりと思った。
イースターまで1週間を切った。やたらと忙しいこの時期に、どうしてこんな本を手に取ってしまったのだろうかといささか後悔をしたが、本というものは不思議なもので、読むべき時に読むべき本が与えられている気がしないでもない。
遠藤周作の「深い河」
遠藤作品は学部時代から「わたしを・棄てた・女」に始まり「沈黙」「白い人・黄色い人」そしていくつかのエッセイを読んだ。「沈黙」は18歳の私に文字通り強烈な印象を与え、「信仰」というテーマに惹かれるきっかけを作った本であった。異文化コミュニケーションについての大学の講義で、凡神論と一神論の感覚の違いをプレゼンとして発表するときに軸として使用したのもこの本であった。今回「深い河」を読もうと手に取ったのは、遠藤自身の最後の作品であるこの本をそろそろ読まねばと思っていた、というのもあるが、何より若松英輔氏の「日本人にとってキリスト教とは何か—遠藤周作『深い河』から考える」という本を読みたいという理由が主であった。しかしこの作品はそれ自体で私に大きな衝撃を与え、この先も何度も読み直すだろうと思わせる深い読後感を感じた。
「玉ねぎ」を信じる者
「信じられるのは、それぞれの人がそれぞれの辛さを背負って、深い河で祈っているこの光景です。その人たちを包んで、河が流れていることです。人間の河。人間の深い河の悲しみ。そのなかにわたくしもまじっています。」
これは登場人物の女性、神様———この物語ではしばしば「玉ねぎ」と表現される———などを信じない美津子がガンジス河で祈った時の台詞であった。彼女は祈りを誰にむけているのかと自ら問い、「いや、玉ねぎなどと限定しない何か大きな永遠なものかもしれなかった」と答えている。カトリック作家がこうした結論を導き出した人間を描くことはとても興味深かったし、神など信じていないと自覚している人間にも「何か大きな永遠なもの」を感じていない人間の方が少数なのだと思う。生と死、清潔と淫猥、全てのものが絡まりもつれあい、混沌として一つの河に収束していく様は、人間の一端としての意識を思い起こさせてくれる。私たちは、ものすごくちっぽけだという。
話は逸れるが、「動物にないもの、人間にしかないものはなんだと思う?」という質問をされたなら、太宰治は「ひめごと」であると答えたが、私は「信仰」と答えるだろう。神など信じない人の視点で話をすれば、人間は動物にはない「神を創り出すことのできる頭脳を持っている」と言えるし、彼を信じる者として言うのであれば「神の存在に気がつくことができるよう、神は私たちをそのようにお創りになった」と言えるであろう。人間を人間たらしめているのは「信仰」だと思う、もちろん特定の宗教を指しているのではない。そして宗教だけではない、何か、それこそ「なんだかわからないけど大きくて永遠のもの」英語で言い換えれば”Something Great”に思いを馳せる、それでさえも信仰だと思う。そして私は、それこそが美しいものだと思う。
インドで神父をしている大津や、修道女たち、玉ねぎを信じる彼ら彼女らの中に「彼」は転生したのだという結論でこの物語は幕を閉じる。この一説は、私にシレジウスという詩人の残した一遍を思い起こさせた。
”キリストが千回ベツレヘムに生まれても、あなたの中に生まれなければ、永遠に無意味である。”
信仰に関しての答えは、とても難しくて短い時間で答えの出るものではない。人生を賭けた問いであり、私はその問いを探す長い旅にでる覚悟がある。確かに今の時代にはそぐわないのかもしれないけれど、それでも考え続けたり、創り続けることでしか満たされない本能を、私たち人間は持っていると信じる。私はその問い、AIには導きだすことのできないごく個人的な答えを探し続けるために、生きて、創るのだろう。
インドへは漠然とした憧れがあった。横尾忠則の「インドへ」というインド紀行の中で、三島由紀夫が横尾に「インドへ行ける者と行けない者がいる」と話している場面がある。インドというのはそれほど行く人を選ぶ場所なのだろうし、実際「深い河」の中でも「インドは一度来てから、もう2度と行きたくないという人と、何度も訪れる人にきっぱり別れるんです」と添乗員が説明するシーンがある。これら二つの本を読み『神秘的で、謎に包まれた興味をそそられる国』としてのインドのイメージはもう既に私にはなく、今はただ、まだインドを受け止められるほどの器ではないだろうなと自分自身を見つめている。また。インドへ行くならば三島由紀夫の「豊饒の海」も読まねばと思っている。
イースターまで1週間を切った。
日曜日の天気予報は晴れである。