女ふたり、暮らしています。/キム・ハナ、ファン・ソヌ
最近自分が考えることの中に 従来の“家族”の形にははまらず、かといって一時的なものには留まらず、信頼のおけるその人と向き合って 助け合って 暮らしていく その具体的な想像をしたい、 というのがある。(その人の性別は問わず、その人との関係性に対して恋愛を当てはめない)
“家族”にも色々な形があり、“共に暮らす”ということにも色々な形があることは、勿論理解しているつもりだが、それを自分に当て嵌めた時に では具体的に「どう共に暮らしたい人を決める」のか、決まったとして「どうその人に伝えるか」、など今ある自分の考えや体験では及ばない部分が多いなと感じた。
そこで かねてから読みたい本にしるしをつけていた
女ふたり、暮らしています。/キム・ハナ、ファン・ソヌ
を手に取った。
この本は エッセイを執筆したりポッドキャストやラジオパーソナリティをつとめるキム・ハナと、ファッション雑誌のエディターから会社員へと転職したファン・ソヌが 従来の家族の形に囚われず、共に暮らしていく互いのエッセイである。
必ずしもひとりでいる必要はない
誰かと暮らすその暮らし方について、様々な方法やかたちが提示され始めている現在においても、それを自分事として捉えることは難しく、頭ではわかりつつも “普通” は男女が結婚をしふたりで暮らしていく、又は子どもがうまれ“家族”で暮らしていくことを想像しがちである。
またそれ以外の暮らしの形に対して 法的措置が足りていないのも事実だ。
そうして刷り込まれてきた“普通”の暮らしから一歩はみ出したとき、もしかしてこれから独りで生きていかなければならないのだろうかという不安に駆られたひとはいないだろうか。
「女ふたり、暮らしています。」はそういった “普通”がかけた呪いたちをといてくれる言葉がぎゅうぎゅうにつまっている。
大事な友人同士であっても必ずしもそれが一時的な同居人という意味合いでなくていい。
もしも誰かと共に生きていきたいのであれば、勿論その人との話し合いが必要だが、そこに恋愛感情などがなくても 誰かと生きていいのだ。
それは諦めや放棄などでは無い。ひとりでいたいと望んでいないのならば、必ずしもひとりでいる必要はない。信頼している他者を切望して良い。(そして同じくらいひとりでいることを切望していいということも大事だ。)
この本がその具体的なひとつの想像を提示してくれるかもしれない。
光を纏って暮らす
読み進めていくうちに私がふたりの暮らしを羨ましく思う点が幾つも出てきた。そのひとつが部屋に差す光である。
この本には参考写真も添えられており、本に彩りをあたえているが、なんといっても光があまりにも綺麗なのである。
家を買う時点で 太陽をとても愛しているファン・ソヌのために慎重に物件を探し、内装工事の際に「最大限、明るく!」と大原則を立てた キム・ハナの思い遣りである。
ふたりが光を纏って暮らすという事は、互いの好きなものや心地の良い時間、相手の幸せを考え過ごしてきた時間そのものなのだと思う。
ふたりよんひき
この本の中程の色の違うページに猫4匹の紹介がある。どの猫もそれぞれに個性があり、各々としてこの家で存在していることがふたりの文章から伝わる。
またこの4匹はふたりが2匹ずつ連れてきた猫であるが、私・あなたの猫と分けない呼び方(住んでた地域の名前をくっつけて呼んでいる)も印象的だ。
彼女たちは4匹たちを飼っているのではなく、4匹たちと暮らしているのだとひしひしと伝わってくる。
誰かと暮らすということは
もちろんやわらかさだけで構成された生活ではない。喧嘩も話し合いも、不安や葛藤もこの本には詰まっている。そういうふたりの酸いも甘いもその全てに背中を押されるのだ。
ファン・ソヌが結婚しないことに対しての知人の避難の言葉について話している部分が何よりも好きだ。
まだまだ結婚をすることがゴールに感じるこの社会で、結婚をすることが本当は手段であるのと同じように結婚をしないことも手段であって欲しいと切に願う。(同じくらい、結婚を望む人たちがみな等しく結婚を選択できることも大事だ。)
様々な形の暮らし方が当たり前になるにはきっと、自分のことを当たり前だと思わないことが大事だ。
一見従来の形の“家族”に見えたとしても、その関係やその意味、形はそのひとたちが決めるべきだし、「選びにくい」がなくなるといい。
『女ふたり、暮らしています。』はきっとなにかの選択をする時のお守りとなるだろう。
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