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感情はわたしではない。「風の時代」がドライすぎるとビビっちゃう人へ。

 最近わたしが考えているのは、変わっていくわたしについて。養老孟司さんの動画を見たことで、今はひっくり返ってしまった世界でわたしは「正しい世界」を感じつづけていたのだということを思い出した。前回書いた小説では、主人公の女の子は変わりつづける自分という前提の中で生きていた。しかし、今の世界はその前提が逆転している。「わたしはわたしで変わらない。情報が、表現されたものが、変わっていくのだ」と。その中で、当然彼女はいろんなことに苦しむ。だから、宇宙人による手術で体そのものを変化させる。昨日のつづきの今日を感じられるわたしになったのだ。この物語を書いた時、わたしはここまで詳細に理解していたわけではなかった。物語を書いてから2年以上が経って、先日養老孟司さんの動画に出会ったのだ。この物語で面白いのは、真逆の前提を正しい方へ変換させたのではなく、多数派へ変換させたことだ。これにはわたし自身の願望が含まれていたのかもしれない。もっと地球的な生活を、もっと肉体を感じながら、みんなみたいに生きたいという願望だ。
 思えば、わたしを含め、わたしの周りには「わたしは変わりつづける」という前提を持っている人が多いような気がする。約束をしても未来のわたしは変わってしまうという前提を持っているから、相手の変化も、自分自身の変化も、尊重しながら繋がっている。その関係がわたしには愛おしい。「正しい」という表現を使ったけれど、絶対的な正しさはない。わたし個人がどちらの世界もあるのだということを分かった上で、やっぱり「わたしは変わりつづける」という前提の方が自然ではないかと感じているのだ。しかし、そのくらい根本的なところで人々の認識・前提がひっくり返っていると、世界には大きな影響が出ているのではないかと思うのだ。今の世界で問題になっていることが、その人々の前提の在り方の違いから生じているとはいえないだろうか。

 さて、支離滅裂に最近のわたしを表現していく。養老孟司さんの動画を見始めたことで、わたしの中でなんとなく古井由吉という作家と結びついてきた。古井由吉さんの文章に初めて触れた時、わたしはなんだかわからないけど強烈に惹かれてしまった。しばらくして出てきた言葉は「あなたのことよく知らないけど、顔がタイプです!」みたいなことに似ていると思った。彼の文体は独特だと評価されているけれど、その言葉のひとつひとつに、その繋がりに、なんとも言えない魅力を感じて一瞬にして恋に落ちてしまった。いまだに古井さんの小説を読んでも何ひとつ意味がわかっていないように感じる。しかし、読んでいる時間の中でわたしの体は心地よくゆるみ、磨かれて光っているような言葉の美しさに感心をする。言葉が少しずつ削られ、洗練される音が聴こえてくるみたいだ。内側、奥深くからひっぱり出してくる内容はもちろん、それをいかに繊細に表現するかという職人のような丁寧さがかっこいい(という安易な言葉でしか表現できなかった)と思った。彼が文学に対して話していたことも今日の話とつながっていると思う。「言葉はわたしのものではない」ということ、そして「人々が失ってしまった言語の欠如を補うために文学がある」ということだ。

 だからわたしは、どんな人も芸術を、表現を、発信をするべきだ、といつも言っているのかもしれない。動き続ける自分自身を表現をすることで止める。芸術はその瞬間をまたぐ行為でもある。それをつづけると、また変わりつづける自分を観察することができる。表現をすることでどんどん自分と自分を分けていく。これは分離のように聞こえるかもしれないけれど、わたしはこれはもともと自分ではないものを自分だと思いすぎている現代の人たちにとって、むしろ自然の状態に戻っていくことであると思う。表現者は、自分で自分が変化する存在なのだということを認めざるを得ない。2年前に自分が表現したものを見ても、今のわたしと全く同じだとは到底思えないからだ。それは、ひっくり返った前提をもう一度やり直すのに役にたつ。

 昨夜、わたしは生理前のせいか急に泣きたい気持ちになって、とりあえず泣いていた。それを俯瞰するわたしが悲しみとか寂しさとか泣く理由を探しているのに見つからず、「そんなに泣くことないのに」と思いながら自分自身を見ている。その体験でわたしが感じたのは、「泣きたい」というのは体の欲求で、そこに原因はないということだった。人間は「悲しいときに泣く」と思い込んでいるから泣きたい気持ちのときになんとなく理由をでっち上げているけれど、本当はそこに関連性はないのかもしれない。友だちのみうちゃんは、感情が好きで、様々な感情を感じるときに理性を侵入させないようにしていると言う。それは、感情が自分とイコールではないと分かっているから出てくる言葉だと思う。普通は、感情と自分は同一化しているのでそこから逃げられない。感情に振り回されるとか、嫌なものだとか、自分ではどうにもできないものと認識する。だから「感情をコントロールする」という言葉がある。しかし、感情はランダムなもので、それは自分自身ではない。発生したときに受け入れて通り過ぎてしまえば消化されて終わっていく。みうちゃんは、感情に飲み込まれずそれを俯瞰して観察する。その動きを面白がり、好奇心を持って交流する。だから感情と友だちになれるのだ。ストラヴィンスキーは「音楽は音楽以外の何も表現しない」と言った。表現者が感情を乗せた音楽はちぐはぐになる。これはとてもドライに聞こえるかもしれないけれど、人間は感情と現象や理由をあまりに一体化させすぎていると思う。繰り返しになるけれど、わたしたちが今「ドライすぎる」と感じる在り方は今よりももっと自然な状態だったのではないかとわたしは想像する。

 これから風の時代になる。今月の終わりには冥王星が水瓶座に入る。「ドライ」という言葉は風を連想させる。今のわたしに今日書いた内容のようなインスピレーションがきているということは、わたしの世界が変化していることを予感させる。それは必ずしもみなさんの世界も一緒とは限らない。わたしの頭が感じていることで、わたしの脳を使って話していることだから。こうしてわたしは動きつづける自分を表現することで止める。ここまでが、今のわたしがわかっていることだ。

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うえかわ聡美 |言葉|創作|ひかりの羽のクラス
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