努力は俺のもの! 結果は社会のもの?
仕事をしていく上で過程と結果は必ず発生します。
私はこの過程を個人の努力ととらえているのですが、最近はコーチングの隆盛もあってか努力を褒められる機会も増えてるんじゃないかなと思います。
ただ一方で不思議なのはなぜ人は自分の努力を褒められたいのか、あるいは社会はこれまで努力を褒めるという点を怠ってきたのかという点です。
私はこれを、努力は自分のもの、結果は会社のものだからではないかと考えています。
努力は自分のもの
Aさんは上司からとても大事な、難易度の高い仕事を任されました。
プロジェクト期間は約一か月。その間休む間も惜しんで取り組みました。
この過程を味わっているのはほかならぬAさん本人です。
周囲も努力している姿を見てはいるものの、あくまで他人事です。
その努力の1から10まですべてを知っているのはAさんだけなのです。
結果は会社のもの
頑張って努力はしましたが、Aさんのプロジェクトは暗礁に乗り上げ、中止となりました。
一方で同僚Bも同じような難易度の仕事を任されて無事プロジェクトを完了させました。
失敗と成功という二つの結果が会社内に明示されたわけです。
ただし、Bさんの成功について、例えば1億の売上があったとしてもそれはBさんの懐に入ることなく、会社の売上になります。
何を当たり前のことを、と思われるかもしれませんが、ここはとても重要なことです。
どんなに努力をしたって、結果は会社に上納しないといけないのです。
努力を褒めてほしいけど褒められなかった理屈
このような図式を皆さんも肌感覚で理解されているかもしれません。
努力は自分のもののため努力を褒めてほしいのです。
仮に結果を褒めまれたとしてもそれは結果にいたるまでの努力を褒められたんだと錯覚して嬉しいのです。
さて、先ほどの例で行くとAさんとBさん、会社はどちらに高い評価をつけるでしょうか?
考えるまでもなくBさんです。
前者後者、両方とも努力を定量化してみると(実際は定量化できないんですけど)同じぐらい努力はしています。
しかし結果は結果です。
会社は自分の手元に戻ってきた結果を見て人を判断します。
だから個人から会社を見た場合、会社は努力を認めてくれていないという感覚になるのです。
努力は会社ではなく環境が褒めてあげればいい
こちらの記事でも書きましたが、会社(経営者)と現場マネジャーでは役割分担があります。
会社は結果をもとに人を判断します。
仮に100万円の売上を上げた社員が二人いて、一人は必死で努力した結果の100万、もう一人はほぼさぼりながらの100万であった場合、会社はどちらを高く評価するでしょうか。
答えは簡単、評価は同じです。なぜなら結果は同じ100万だからです。
さぼりながらでも結果を出せる人はひょっとしたら本気を出せば1000万の売上を出せるポテンシャルを持っているかもしれません。
だとしても今回出した結果が100万であるい以上、100万分の評価をするのが会社です。
そうしなければ公平性を保てなくなります。
では結果がどうであれ、個人の努力は誰が受け止めてあげればよいのでしょうか。
それは周りの環境です。
現場マネジャーや同僚、会社外なら家族や恋人、友人に自分の努力を話してそれを褒めてもらえばいいのです。
特に現場マネジャーは個人の気持ちを受け止めることも仕事の範疇です。
難しい仕事ではありますが、チーム全体の士気にかかわる仕事ですから丁寧に対応していく必要があるでしょう。
そして何より、努力は自分で褒めるものです。
結果がどうあれ努力の全容を知っているのは自分だけです。
ならば周囲に吹聴するするまでもなく自分で自分の中で自分の努力を誇ればいいし、誇ることで、でもここは失敗だったなと反省もできるはずです。
こちらでも書いた通り、組織と個人の気持ちというのは複雑に絡み合っています。
しかし努力と結果という軸で見る場合には存外シンプルに対応できるんじゃないかなと思います。
私も大量の失敗を経験してきました。でもそこに至るまでの努力は無駄ではないです。
だって少なくともこうして記事という結果に落とし込めるほど思考の努力をしてこれたわけですから、などと調子に乗ったところで私も次の努力を始めようかと思う次第であります。