「考え方」を考える 3
こんにちは。
スクラムヒューマンパワー代表 日原 達仁です。
私の記事を読んでいただいて、ありがとうございます。
しばらくの間、坐禅ができるお寺に通っていた時期がありました。
早朝の清々しい空気の中、お香の香りに包まれて鳥の囀りを聞きます。
ピリッとした緊張感の中、背筋を伸ばします。
頭からお尻まで棒を通したように
真っすぐに保ちながら、股関節を開きます。
腿の上に、反対の足の踵を乗せる形になるので、
ラグビーで痛めた膝には少し負担がかかりました。
それでも、呼吸に集中し「行」に入ります。
痛みも受け入れる、そんな気持ちで坐禅に向き合いました。
次第に坐禅仲間とも打ち解け、老大師の話される禅語に、
私の自我も少しマイルドになっていた気がしていました。
12月~3月の早朝坐禅会は、腹の底から冷えます。
お寺は隙間も多いためストーブの効果も薄く、
本当に寒かったことを思い出します。
それでも土曜日は恵林寺に、日曜日は円光院に毎週通い続けました。
5年ほど続けていたでしょうか。
ラグビー監督を兼任していたこともあり、また、仕事柄、
人と関わることがとても多く、指導する立場に身を置いていました。
ある時、人の話に翻弄され、一喜一憂する、
右往左往する自分がいることに気が付いたのです。
そんなとき、強靭な精神、説得力、不動のこころで有名な経営者の方や、
スポーツ指導者の方が坐禅をしているとの情報をいただき、
真似事のような形で始めたのです。
始めてみれば奥深く、
坐禅によって心を無にする時間は私にとってかけがえのないものでした。
般若心経、坐禅和讃、四弘誓願文、
興禅大燈国遺誡(こうぜんだいとうこくしゆういかい)など、
参加者の皆さんと一緒に唱えました。
今でも般若心経、四弘誓願文を折に触れ唱えることがあります。
昨今は「葬式仏教」、葬式の際にしか必要とされない
形骸化したもののようになってしまっていますが、
本来の仏教とは、「無」、「空」、そして「ありのまま」です。
特に心に重く響くのが、興禅大燈国遺誡の「己事究明」です。
専一に己事を究明する底は、老僧と日日相見報恩底の人なり。
「ただひたすらに〝自分とは何か〟という課題にさえ取り組んでくれれば、たとえ百年の歳月を隔てようとも、日々この私と暮らす人といえる」
という意味です。
「そのままの自分のあり方」を究明し続けるような人こそが、
日々顔を合わせるような心持ちで、恩を報いてくれているのです。
私にとって、坐禅を通して
「まずは自分の心をしっかりと見つめる」というところに
たどり着けたことが何よりも得難いものです。
それまで外に向いていた関心が、
方向転換して自分の方に向きを換えることは、
口で言うほどに易しいことではないと思います。
何らかの出来事が契機となって、
自分の存在が揺すぶられるようなことになり、初めて自分の外へ出て
自分を見つめるチャンスを得るのではないでしょうか。
坐禅だけではなく、瞑想やマインドフルネスなども、
自分の内側にフォーカスしてみる方法として昨今注目されています。
Google社などの欧米企業でも、
ストレスマネジメントやセルフマネジメントで積極的に用いられています。
難しそうに思えるかもしれませんが、
まずはスクラムヒューマンパワー主催
YAMANASHI NATURAL WORKSHOP SEMINARで
楽しく学んでみてはいかがでしょうか?
次回開催は10/9(土)です!