「生きる」にしがみつく。
「働く」とは
知ってる人も多いと思うが僕はヒモだ。
ヒモなんてやってると、周りにも言われるし、自分でもたまに錯覚してしまうんだけど
実は、僕は働くことが嫌いなわけではない。
働いたことのある職種の大半を占めているのは接客業なのだが
僕は店員として、お客様と対面できることはすごく好きだし
何より「ありがとう」と言ってもらえるのは、本当に嬉しい。
だから僕は自分の父親がやっている工場以外では接客業しかしたことがない。
というか、素直にさらけ出すのであれば就職活動をしたことがない。
僕は高校を一度辞めた時から、ずっとふらふらしっぱなしだ。
ただ昔から「アルバイトでも生きていける」とう考え方だけは変わっておらず
周りが就職がどうとか、内定がどうとか、説明会がどうとか言っている時も特に動揺なんかしなかった。
確かに自分の父親がやっている会社がある、という甘えにも似た余裕があるのは事実だが。
でも僕は、どこまでいっても人と繋がっていたい。
工場の働き方は、どうしたって僕には合わない。
仕事は人生の大きな時間を占めるから、どうしても好きな仕事でしかやりたくなかった。
それでいつも接客業に落ち着いていた。
人と関わりたい。
人と関わって生きていきたい。
「お金を稼ぐ」とは
この記事のちょうど一年前くらいまでは、僕の小さな価値観の中で
お金とは働いて企業からもらうものだった。
きっとそれ以外で「お金を稼ぐ」なんて、才能の塊のような人…いわゆる天才だったり
小さい頃から学業に励んで、いい学校に入ったいわゆる「学歴」のある人だったり
少なくともふらふら遊びまわっているような僕なんかとは、まったくもって違う世界の話だと思っていた。
小さな田舎で育ってきた凡人の僕には、そんな世界のイメージすらなかった。
もちろん学校やバイト先でも教えてくれるわけなんてないし、結局お金は必要になってくるから、生きるためには働くしかなかった。
親なんて特にそういう世間体を気にする人だったし、僕の祖母なんかもまさにその典型だ。
「仕事をしないとお金は入ってこないし生きていけない」
これは常識だと思うし、当たり前なんだけど、そこに対しての疑念なんて浮かばなかった。
だって、そういう生き方をしてる人しか周りにいなかったら、当たり前のようにそうなる。
そして、その価値観の中でしか生きれない。
だけど、世の中には遊ぶようにしてお金を稼ぐ人もいる。
ゲーム実況だったり、音楽だったり、釣りだったり。
いわゆる「趣味」の延長戦でお金を稼ぐ人がいる。
できないと決めつけていたのは、自分の小さな価値観だと気づいた。
「常識」を疑う
小学生に上がるまでは記憶もぼんやりしているし、小中学生の時は親に「部活しろ」と強いられたことは強く覚えている。
高校生になってから部活は言われなくなったが、学力が下がれば烈火のごとく怒られたし、高校生なのに外泊もさせてもらえなかった。
結局、その圧迫に嫌になって学校に行ったフリをしていて、出席日数が足りなくなった。
親にそれがバレた時とんでもなく叱られ、そこで人生で初めて父親と殴り合いをした。
僕はこの時に思っていたことがある。
今でもはっきりと覚えているし、何なら親にその言葉をぶつけた。
「このまま大人になって、仕事して、死ぬまで働いて…いつ遊べばいいんだ!」
親には怒鳴り返された。
それが「当たり前だ」「常識だ」なんて大声で。
でもこの時の叫びにも似た言葉は、僕の思考に小さなヒビをいれた。
それでもやっぱり常識にとらわれてる人が多いせいで、そのヒビにすら気づかなかった。
結局、大人になって「働いて企業からもらうもの」に落ち着いてしまっていた。
「それが常識」と言われたら何の抵抗もなく信じ込んでしまうし、
むしろそういう生き方をしないと周りから「変なやつ」というレッテルを貼られる。
どちらかというと、そっちだ。
周りの目を気にしてしまう僕は、他人に嫌われたくなかったから常識を受け入れた。
でも、その常識って正しいのか?
その一言が言えない臆病者だった。
”自分らしく”生きる
僕には何もなかった。
人より優れた特技なんてないし、資格も持ってない。
人脈だってないし、覚悟もない。
一度決めたことを最後までやり遂げる根性もない。
「考え方が甘い」「だからお前はダメなんだ」
何度も何度も言われ続けてきた。
僕には「自分」がなかった。
自分の意見も言えなかった。
そして「自分らしさ」もなかった。
だから、逃げ続けていただけ。
だけど一番ダメだったのは、それを理由にしてできないと決めつけていたこと。
結局自分の人生はどこまでいっても自分次第。
何もやらなきゃ何も得れないわけで、そのシステムは単純だ。
だからこそ「好きなことで生きていく」という言葉に見落としがちな点が出てくる。
働くことは嫌いじゃない
さて、一度話を戻そう。
冒頭でも書いたことだが、ヒモになって生きていると周りから言われるし、僕自身も思ってしまう。
「どれだけ働くのが嫌いなんだ」
自分でも意識しないと忘れてしまうような感じだ。
上でも書いた通り、本当に僕は働くことが嫌いなわけじゃない。
職場での交友関係なんかも好きだし、職種によってはスキルもつく。
自分の学びになるのであれば、それだけで結構価値のあるものだと思える。
だけど少し前に辞めた職場も、その前に辞めた職場も、どこかで嫌になって辞めるに至る。
僕はずっと「常識」に飲まれて生きてきた人間だから、自分が悪いと思い込んだ。
数ヶ月しか続かないなんて、弱い人間だ…とか
本当にダメなやつだな…なんて自己嫌悪に陥ったり。
でもここに関しては、僕が自分の気持ちを偽って働いていたというのが悪かった。
僕は今まで「接客業」が好きだったから、接客業を一括りにしてしまっていた。
そして面接に受かるために必死だった。
その結果、自分の心に限界が来てしまう。
接客業は好きなんだけど、自分らしさが出せないと続かない。
自分の気持ちを偽って働いた先にはストレスしかなくて、これはただのわがままなんだけど、僕は僕を殺せない。
自分らしさを抑えて働くなんて、もうやりたくない。
でも自分に素直に生きる、というのはそれだけで自分への「責任」も伴う。
自分にくるダメージもしっかりと理解してないといけない。
「真面目なのはいいこと」の罠
昔から、仕事の時はメモをとるようにしていた。
早く仕事を覚えて、自分の不安を消したいからだ。
本質を言ってしまえば、メモをとることにはあまり意味はなく
メモをとることが目的になってしまって、仕事を覚えれない人もいる。
だが、僕は違う。
与えられたら、全部覚える。
それは自分を守るための知識。
仕事しながら慌てたりテンパったりしたくないから、そのための自衛でしかない。
良くも悪くも完璧主義だ。
そして悪い意味ででも、要領がいい。
そうすると、いつも上司から期待されてしまう。
そうやって結局、立場は上がる。
うちで社員にならないか?と持ちかけられる。
僕自身は、正社員に興味なんてないのに。
押し付けられる仕事量も他の人より増えて、接客がやりたいと思っているのにその時間も減ったりする。
僕は、そんな仕事なんかで「責任」を押し付けられたくない。
真面目でいようとして、真面目でありすぎるせいで無理が生じてくる。
きっと僕は自分でそれを理解できていなかったのだと思う。
好きなことで生きていく
好きなことで生きていく、というのはラクをして生きると同じ意味ではない。
そこが履き違えられがちである。
とはいえ、最近の僕なんかはまさにこの履き違えをしていた。
昔から、自由人と呼ばれていることが多い僕は、この「自由に生きる」を主張しようとしていた。
だからここ最近まさにヒモのような生活が板についてきて、自由を満喫しているかのように錯覚してしまっていた。
これは、自由に生きているわけじゃなかった。
嫌なことから逃げていただけだ。
やりたくないことをやらない、は自由に生きるとは似て非なるものだ。
いつから錯覚してしまっていたのだろう。
他の誰より、自分に甘いのは僕の悪い癖だ。
好きなことで生きていくには、苦痛が伴う。
好きなことで生きていくには、好きじゃないこともやらなきゃいけない。
ただ、その「好き」のためならどんな困難でも乗り越えれるほど強くなれる。
それがまさに「好きなことで生きていく」というものの気がするし、この過程で得るものこそが宝になる。
それを放棄して生きたいと思うような自分だったか?
自由に生きるために、やりたくないことをやらなければならない時はくる。
逃げていいものと、立ち向かわなきゃいけないものの見極めは常に行わなきゃいけない。
それ以外はただの現状維持だ。
僕はもっと先へ行きたいし、もっと上に行きたい。
そこからの景色を眺めてみたい。
常識にとらわれない芯を持つ
だからそのために常識にとらわれてしまうこの思考をもう一度ぶち壊さなきゃいけない。
そして、何もない僕だからこそやれることはある。
これは一種の決意。
これまで何度、決意を決めてきたんだ。
ほしいのはこんなものじゃない。
今この状況において、現状維持はやはり衰退だ。
時間だけが過ぎていく。
この時間を無駄にしない。
そのために今、何ができるか。
今ここでやるべきことは、落ち込むことじゃない。
落ち込んで答えが、結果が出るならいくらでも落ち込んでやる。
でもそうじゃない。
行動の先にしか、未来はない。
そして、それを選ぶのも切り開くのも自分自身なのだから。
「行動しないという行動」の先にあるのは間違いなく失敗だ。
選択肢を見誤るな。
今という時間は一生戻ってこない。
戦わなければ。
戦わなければ、未来はない。
時代のせいにもしたくないし、言い訳にもしない。
僕にしかできないことがあるはずだ。
「生き方」とは
僕は、今回語ったようなふわふわした生き方をしている。
そして、幸いにも生きてこれた。
世の中では「サラリーマンはオワコン」なんていう言葉をたまに聞くが、僕はそうは思わない。
きちんと就職して、周りに社畜なんて言われてもしっかりと会社に行く。
僕には到底真似できない。
そこに信念や、未来があって誇りがあればその生き方のほうがカッコいい。
要はできる人ができることをする、という単純なものでいい。
僕にはその生き方や働き方はできない、というだけだ。
本当にダメなのは、嫌で嫌で仕方ないのに自分の心を殺してまで働くことだ。
仕事を辞めれないから、と自殺までしてしまう履き違えた真面目のほうだ。
昔の僕は、まさにそんな思考をしていた。
だからこそ、戦いたいと思ったはずだった。
僕みたいでも全然生きれる。
生きていける。
だから僕は、僕自身を貫いていく。
生きたきゃ、俺と来い
今の僕、クルスが最初に掲げたテーマだった。
はじめは軽い気持ちで好きだったマンガのキャラからとっただけだ。
何となくで、この言葉に惹かれた。
なのに、僕自身がそれを忘れていたように思う。
何となくで生きてるのは、本当に生きてると言えるのか?
ワクワクしないで生きてる人が死んだように見えた。
そんなのは、生きてると思えなかった。
死んでないだけだ。
だから、生きたきゃ俺と来い、そう言いたかった。
だから、僕は憧れた。
そんなことを言ってくれる人はいないものか。
探す手間も惜しいし、会えるか、存在してるのかもわからない。
だから、思った。
僕がなろう、と。
いないならなればいい、なったら同じような人が集まってくる。
クルスは他の誰より、僕の憧れであるべき像だ。
そして僕は今、クルスとして生きている。
ただ、そこに甘えていたのだ。
憧れた自分像なのか?
こんなやつでいいのか?
まだまだだ。
こんなんじゃ全然足りない。
だからこそ、この覚悟と決意を胸に
僕はこの身体と、この文字と、この熱量という武器をとる。
「生きる」にしがみつく。
カッコ悪くたっていい。
バカにされたっていい。
命の尊さを説くつもりは、さらさらないが
生きてる、それが何よりも素晴らしい。
生きてる意味が分からない、と何度か相談を受けたことがある。
彼ら、彼女らの身体には傷があった。
その度に僕は答えた。
「きっと人は、生きる意味を探すために生きてるから。
そして、その意味は死ぬときにしか分からないんだよ。」と。
この答え方は、正解ではないかもしれないが
あながち間違ってもないんじゃないかな、と思う。
この言葉は、そんな相談をしてきた人たちに感謝された。
ありがとう、その言葉が何より嬉しかった。
その傷より痛む心で悲痛の叫びを僕にさらけ出してくれたのだ。
生きよう、生きてればいいことがある、
僕にはそんなふうに言うことはできなかった。
僕には、それを止める力はないから。
だけど、カッコ悪くても、情けなくても、バカにされてても、生きてる。
生きてるから辛いことを味わうけど、そしてそれは本当に苦しいことだけど
そんな痛みと向き合わなくていい。
真面目に戦わなくていい。
生きてる、それだけでいい。
何の取り柄もなくても、強くなくても、無職でもいい。
開き直っていい。
自分の人生は自分のためにあるのだから。
生きるにしがみつく、それが一番人間らしく、美しい。
悩みそうな時は、僕がいるじゃないか。
質問箱やDMでも叩かれる。
知り合いにもバレてる。
でも、それがなんだって言うんだ。
心無い言葉を投げかけてくる奴なんかが、
僕の人生の責任をとってくれるわけじゃない。
だけど人間は、世界はそんなで回ってきたし、そんなで回っていく。
良くも悪くも、僕らの悲痛の叫びは届かないよ。
だから、好きに生きてやるんだ。
生きるにしがみつくんだ。