ノーベル文学賞を読む:ヨン・フォッセ『だれか、来る』(白水社)
文学作品としての戯曲の歴史は紀元前まで遡る。古代ギリシャの劇作家アイスキュロスによる作品が現存するものとしては最古の戯曲とされている。初演は紀元前472年。戯曲には、現代の私たちからすれば途方もない時間の流れを感じさせる歴史がある。誰かが演じる前提で登場人物の台詞・行動・構成・舞台指示が書かれたテキストを読むのは、小説を読むのとは違った読書体験であり、その魅力を理解するためには何度も繰り返し読むことが欠かせない。そうすることによって初めて、印刷された文字が言葉として空間に吐き出されたときに生み出すゆらぎを掴むことができる。そのゆらぎが自分の耳に入ってくるのを想像しながら、背後にある感情を想像する。
ヨン・フォッセが1996年に発表した『だれか、来る』もまた、繰り返し読み味わうのにぴったりの作品である。あらすじはこうだ。辺鄙な場所にある海に面した古い家に二人の男女がやってくる。男は50代、女は30代。二人を引き離そうとする周囲の人々から逃れるためにその家を購入したようだ。やっとお互いだけの時間を過ごせることへの幸せを噛み締めながら寄り添っている。しかし女は次第に「だれかがやって来て、二人だけの生活が終わってしまうのではないか」という不安に駆られる。男は「そんなことは起きない」と何度もなだめる。だが女の予感は的中する。第三者の気配が近づき、「だれか、来る」が「だれか、いる」に変わったとき、やっとの思いで手に入れた静かな暮らしは、男の激しい嫉妬と女の不安で揺さぶられることになる。
この戯曲はシンプルで短い表現を繰り返しながら、穏やかだった水面が風によって大きく波打ち、また穏やかに戻っていくかのような関係性を描いている。第七場まであるものの、文章(というか句)の集合体でしかないため、最初は「これは一体なんなんだろう」という感想は避けられない。しかし繰り返し読むことで、一見するとミニマルに見える劇が、水面下では津波のようなうねりを隠しながら進んでいる様子が見えてくる。これが戯曲を読む面白さなのか、と改めて思い知らされた。
この本には著者による短いエッセイも収録されている。『魚の大きな目』と題するこの文章は、フォッセ自身がある夏の夕暮れに木製ボートで海に出る様子を描いている。少しずつ水深が深くなり、エンジンが使える場所まで来るとボートが滑らかに水面を走り出す。向こうの陸に見える家々とそこに住む(あるいはかつて住んでいた)人々のことを思い出し、また底なしのフィヨルドの深淵に思いを馳せながら釣り糸を繰り出す。竿がしなり、手繰り寄せた釣り糸の先にかかった一匹の魚。エラに指を突っ込みとどめを刺した時の魚の大きな目に、筆者は文学を感じている。一連の出来事がひな形となり、自身の思考に、文体に、文学に独特のリズムを生み出していると考察する。彼だけにしかわからない体験であるにもかかわらず、なぜか言っていることがわかるような気もする。固有の体験談を超えた普遍的かつ地に足のついた文学論とも言えるかもしれない。
白水社より2024年1月に刊行された『だれか、来る』には訳者の河合純枝による34ページにわたる解説が添えられている。これが実に網羅的で、ヨン・フォッセ初心者にとっては非常にありがたい。河合はフォッセと20年来の友人であり、翻訳に際しては本人への確認も交えながら進めているそうだ。国営のアーティストレジデントで生活にかかる一切を保障されているという現在の暮らしぶりから、生い立ちや彼の作品群に通底する思想などを、短いながらも噛みごたえのある内容で紹介している。今後、ヨン・フォッセ作品が邦訳される度に参照される資料となるだろう。
ヨン・フォッセは1959年、ノルウェー西海岸のハウゲスンで生まれた。彼の作品群はニーノシュク(新ノルウェー語)で書かれており、戯曲、小説、詩集、エッセイ、児童書、翻訳など多岐に渡る。2023年にノーベル文学賞を受賞。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?