国家の喪失:日本国の完全なる内面化
李登輝氏の死去を受けて。
〇弔い
令和2年8月1日、ここに彼らを弔わん。
先の戦の中に亡くなった者たち。また、
先の戦の後「祖国の消失を憂い殉死した者たち」
国内年3万人の自殺者の内の多くは「清明心への殉教者」であると思う。
そこに精神的殉死:売国奴化も含めれば年間の殉死者は優に30万は超えるだろう。ここに彼らを労わらん。
いかに国家が切り売られようども、我らが内なる日本精神は不滅。
〇進言と宣言
私は祖国と共に生きよう。そして後世に伝えよう。
いかに膨大な含み損を抱えようとも、一為政者たる威厳を以って。
民主主義国家においては主権者一人一人が為政者であり、仮にいかに選挙に応ぜずとも、それは政治的行為の一環であり、それはそれとして真っ当に評価されるべきだと思う。
現行のフィードバックの構造は明らかに杜撰だ。
日本という国は確かに地図上に存在する。
しかしその表記方法もここ数百千年の話。
現在、日本と呼ばれているものは「現・日本列島」と「現・日本政府」という地形と上部組織に他ならず、もはや「天皇と国民とその代々の精神」はこれに含まれていないようにさえ感じられる。
これは戦後、「日本」という国が、良くも悪くも、国際的存在から精神的・内面的存在に移行しつつあることを示唆している。
〇名は体を表す
日本とは「日出ずる国」
日が昇るところの国、これはつまり言い換えるなら、お天道様の恵みを受ける集団、「その全てが日本たり得る」ということ。
【狭義の日本人】
日本国民は日本列島に住むから日本国民なのではない。
日本国民は国政に関する選挙に参加するから日本国民なのではない。
日本国民とは日本国民であるという矜持を持つがゆえに日本国民なのだ。
逆に言えば、祖国の意志を愛する矜持がなければ、いかに官僚といえども「日本国民」であるとは言えない。
しかしながら、真に日本国民たるかどうかは本人以外が判断できることではない。
なぜならば、この国民性は内面化されなるほどに強固になるが、それに比例して外面的も強く現れるとは限らないから。
つまり、「日本人」のその国民性は、日本国という外面的存在が解体されるほどに完成していくという性質をもつ、珍妙な国営集団であるということがいえる。
【広義の日本人】
日本国民であることに違和感さえなければ、矜持も自覚もいらない。
「八紘一宇」とはよくその性質を表す言葉である。国家内の一般精神とその表徴としての合言葉、この双方が矛盾なく合わさった時の相乗効果の恐ろしさは想像に難くない。
ー「アリがアリをすればそれはそれは健全だが、現在、情勢が愚図ついている国々はどうもアリをダンゴ虫として育てているかのようだ。
そこには資本主義的な横暴さに加え、種族の性質の差異を無視した共産主義的な乱暴さが垣間見える。
アリにはアリの苦労と矜持があるだろうが、種を越えるのとは話が別だ。」
まぁさ、ほどほどに、がんばろ。
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