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暇と努力と問題視:学者とはまさに免疫記憶
『私がこんなにも気にかけて、気を付けて、こだわって、努力していることに対して、あなたはどうしてそう平気で無関心でいられるの?』
ときたま巡り合うシチュエーション。
関心の度合いに雲泥の差がある状態。
こう聞かれた側の対応は大きく分けて以下の4パターン
1.「君が気にしすぎなんだよ。」非難
2.「何か気にしていないと暇で困るんでしょう。」解説
3.「ぼくは他の事で忙しいんだ。」転化
4.「どう転んだって同じようなもんじゃないか。」諦観
そう、いかなる道理であれ、そもそも関心のない者にとってはいかなる事態も提起されたと同時に解決されてしまうため問題にはならないのだ。つまり我々はある集団的問題に際して、
問題視する人がいなくなることを「解決」と呼ぶ。
ここで引っかかるのが「学者」という存在だ。
学者というのは難儀なもので、個人的であれ集団的であれ、聞かれていもいない問題を自ら提起し、それの「解明」に心血を注ぐことを生業としている。
それはいかなる場合であれ”ウロボロス”、”自分の尻尾を追いかける犬"、”目の前にニンジンをぶら下げた馬”のようにマッチポンプな行為だ。
それに社会に本当に「問題」が生じたときは、何事であっても市民全体で瞬く間に共有されてあらゆる手が尽くされ、専門家などいなくても数日から長くても数年の内に「解決」されるだろう。
そして問題が「完全に解決された時」それを気にする者はいなくなり、事象はまるごと忘れ去られる。
つまり、我々にとって最大の問題は【問題は解決されると消滅する】ことである。
「それはすでに概ね問題でない」という認識がある限り、問題は永久不滅である。ここで、学者は自らが進んで「問題の核」となることで、次なる問題に備えているという見方が生じる。
学者は占い師でも予言者でもなく、科学者である。
彼らはこれから起こる問題についてはついぞ正しく語ることはできない。
しかし、すでに社会的にほとんど解決された問題をいつまでもネチネチと弄り回し、集団内で免疫記憶として、次また仕事が来ること、言い換えれば「再び似た問題が起こる時」を待っているのである。
ゆえに彼らからはどこか陰険で、陰鬱で、実力不明で、理解不能で、癒着が強い印象を受けがちである。
しかし、以上の論から、「学者や知識人」等がいかに成績不振で社会の重荷であっても、それは『社会が無病息災な証』として、可能な限り温存しておく方が社会的豊かさに繋がるとの見方もできる。
無為な学者を快く迎え入れられるなら、無為な若者、無為な年寄り、無為な自分、ひいては一見有害で理解不能な「よそ者」までも温かく受け入れられるような、そんな社会がいつかくるかもしれない。
それが良いことだとは思わないが、多くの人への救いにはなる。
自ら誰かを救うことで初めて人は心から救われる。
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