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頭が空っぽになると「感じる」が動き出す。

整体指導では最後にお腹か後頭部に愉気をして終えることが多い。

最後にお腹に愉気をしていたら

先生が触れている処、私そこに腫瘍があるんですと驚かれていた。



ぼくの立場からすると腫瘍があるから愉気をしたわけじゃない。

シンプルに気配が変だったから。

お腹の中でそこだけ気が抜けて弛緩していたから

その場所を選びとって愉気をしていました。

愉気をしながらカラダが穴を開けてくれる方向に従って

指先をどんどん深部に突っ込んでいったらたまたま腫瘍があっただけの話。


活元運動を訓練している人であれば他者に触れると手を当てたくなる処がある。

触れられた側も、まさにそこに触れて欲しいと感じられることも多い。

本人が腫瘍を違和感として感じとっていれば

触れられて愉気をされるととても心地いい。

手を当ててられるとシックリくる。


この感覚は頭で考えると分からなくなる。

感じることでしか分からないし、選び取れない。


ぼくが未だ活元運動が出なかった頃

先生の指示で数十年活元運動をやり続けてきたおばあさんと組んで相互運動をさせていただいた。

最初に礼を交わしただけ。

言葉も交わさずに相互運動が始まった。

運動中はふたりとも目を閉じている。

相互運動が始まるとおばあさんはぼくを横にして

ぼくの右足をものすごい勢いでさすり始めた。

股関節から太腿にかけてを。


ぼくは人間が持つ「感じる」本能の力に驚いてしまった。

ぼくの右足は大学時代に競技スキーのダウンヒルで誤って大ジャンプして転倒してから感覚麻痺していたのだから。

右足だけウエットスーツを着ているような感覚だった。

そんなことを知るはずもないおばあさんは

黙々とぼくの右足を猛烈にさすってくれていた。



大切な人が亡くなったあとに発狂したと判断されて閉鎖病棟に入れられた人がいる。

閉鎖病棟から退院して活元運動の会に参加したら

相互運動で組む相手がみんなそろって自分の頭を叩き出した。

事情も知らない人たちがこぞって自分の頭を叩きだす。

自分では病棟にいる時でさえも正気だと思っていたのに

自分の気が狂っていることを認めざるえなかったと言っていた。

叩いている人だって

何故自分が相手の頭を叩き出しているのか分かっていない。

本能で感じたままに、目の前の生命に働きかけていただけ。


1人で行う活元運動と同様に

「わたし」が行っている意識運動じゃない。

「わたし」が操縦席から退いて

いのちを運営している無意識運動に操縦席を明け渡すと

いのちは目の前のいのちに対しても働きかけてしまう。

「わたし」が考えているあいだは決して出てこない動き。

頭が空っぽになって「わたし」が退くと活元運動が現れてきます。



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