性被害を受けても怒りの感情がない私が思うこと
先日、性被害の自助グループに初めて参加し、同じような体験をした人のお話を聞いてきた。性被害がその後の人生に多大な影響を及ぼし、何年経っても苦しんでいる人々がいる。そして、消えることのない大きな心の傷と死ぬまで生きていく。そんな現実を再認識したところだ。
私の印象に残っているのは、怒りの感情である。人間の尊厳を踏みにじるような行為をされたこと、自分の意思とは関係なく強制されたこと、人には言えない恥を受けたこと、怒るのは当然のように思う。そして、その怒りの爆発をどうすれば良いのか、コントロールすることの困難さを感じている人がいることを知った。
それと同時に、私には怒りの感情がないことに気がついた。性被害を受けたことに対してもそうだが、日常生活でも怒ることがまずない。どうしてだろうか。こんなに毎日つらい思いをしていても、怒りの感情は湧かないものだろうか。そこで、私の怒りの感情に対する考えを整理してみた。
⒈怒ることは悪いこと
私は怒ることは悪いことだという認識がある。小さい頃から父が怒っている姿を見てきたからだろうか。父は週末の掃除をするたびに、家の外に荷物を放り出し、イライラして怒り散らかしていた。思春期の兄と大きな声で怒鳴りあい、時には力尽くで自分の意見を押し通した。
私は反抗してみるものの、いつも父には敵わないという自分の無力さを感じていた。怒っている人に恐怖を感じ、自分の意見を言えなくなる。感情を押し殺して、黙って耐えてきた。そして、いつしか父の様にはなりたくないと思うようになった。怒りに身を任せる人間にはなりたくない。怒りの感情を持つこと自体が悪いことだという認識ができていった。
本当はどんな感情があってもいいし、理不尽なことがあれば怒っていいはずだ。それを相手にぶつけたり、物に当たったり、自分を傷つけたりしなければ、、、
⒉怒るにはエネルギーが必要
怒るにはエネルギーが必要である。私のことを理解していない、あるいは理解しようともしていない相手に対して、自分のことを分かって欲しいと訴えることだと思う。
思っていることがどうやったら伝わるのか、どれほどの強い気持ちであるかということを、心身の体力を擦り削って、必死に叫ぶのである。そして、相手が自分より強いと、なおさら負けないようにと頑張る。
また、傷ついた、悲しい、辛い、悔しい、寂しい、恥ずかしい、沢山のネガティブな感情と向き合わなければならない。
うつが強くて、毎日生きているのもしんどい私にはそんなエネルギーはない。
⒊相手よりも自分を責める
相手が悪いと思えるから怒ることができる。自分に非があった、自分にも悪いところがあった、と思っていると相手に怒るという選択肢すらない。
性被害を受けた人に対して、あなたは悪くない、悪いのは加害者だと、どれ程周りから言われたとしても、自分の中で私が悪かった確固たる根拠のようなものがあって、抜け出せない。むしろ根拠を探しているような、、、
自己肯定感が低いということもある。自己否定しすぎて、自分の存在すら認められない。相手に怒るよりも、受けた傷が大きすぎて、打ちのめされる。こんな自分では生きられない、人に知られてはいけない、隠さなければならない状況に追い込まれる。
⒋何に対する怒りか分からない
もちろん、人間の尊厳を踏みにじるような行為をされたこと、自分の意思とは関係なく強制されたこと、人には言えない恥を受けたことに怒りを感じることは理解できる。しかし、人間の心はそう単純ではない。もっとドロドロした複雑な感情があって誰に対して何を怒っているのか分からない。
加害者は何も責任を感じていないこと。そして助けてくれなかった周りにも。抵抗できなかった自分、今でも変われない自分にも。事件が起きてしまった環境、正しい教育がされないことにも問題がある。起きていることを見て見ぬ振りして、弱いものは生きていけない社会。
自分の中でも整理できていない複雑なこの感情をどうやって表現すればいいのか、誰が聞いてくれるのか、怒り方が分からないのである。
⒌怒っても世界は変わらないという諦め
大きな衝撃を受けたり、苦しい体験をすると世界に対する信頼は失われていく。私が生きている世界はこんな事が普通に起きる怖いところだ。誰も助けてくれないし、苦しんでいることに気づいてくれない。
どれだけ怒っても、叫んでも、分からない人には分からない。知ろうとしない人には理解されない。興味もない、世界は冷酷である。世界がとても大きく、遠くに感じて、ちっぽけな私じゃ太刀打ちできない絶望感がある。
誰かを信用したり、頼ったり、親密になることを避けようとする。自分から距離をとって、ただ生きていくことを優先する。結局は自分で何とかするしかないのである。
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