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読書感想文「読んでいない本について堂々と語る方法 ピエール・バイヤール」

めちゃくちゃ面白かったので、初めて読書感想文を書いてみます。
小学生の時は親に書いてもらい、中学生以降は裏表紙のあらすじを丸写ししていたので、ガチで初めての読書感想文です。
頑張ります。

著者バイヤールは、3種類の「本」を定義します。〈遮蔽幕(スクリーン)としての本〉〈内なる書物〉〈幻影としての書物〉。

この分類は、そもそも我々は本そのものを「読む」ことはできず、主観で評価したものについて語る、という前提から出発します。

われわれが話題にする書物は、「現実の」書物とはほとんど関係がない。それは多くの場合〈遮蔽幕(スクリーン)としての本〉でしかない。(中略)われわれが話題にするのは書物ではなく、状況に応じて作り上げられるその代替物である。

われわれは、本を読みはじめる瞬間から、いや読む前から、われわれのうちで、また他人とともに、本について語り始める。そしてその後われわれが相手にするのは、現実の本ではなく、これらの言説や意見なのである。現実の本は遠くに追いやられ、永遠に仮定的なものとなるのだ。

p84-87

現実を映したスクリーンについてしか、我々は語れない、ということです。

我々が本を読み、〈遮蔽幕(スクリーン)としての本〉とする際の影響元となるのが、2つ目の〈内なる書物〉。

各人に固有の幻想と私的伝説で織りなされているこの個人的な〈内なる書物〉は、われわれの読書欲の牽引役である。われわれが書物を探したり、それを読んだりするのは、この〈内なる書物〉があるからに他ならない。〈内なる書物〉はあらゆる読者が探し求めている幻想的対象であって、読者が人生で出会う最良の書物も、さらなる読書へと誘う、その不完全な断片にすぎない。

p139

これは読書だけでなく映画、音楽、いろんなことに言えそうです。

3つ目は〈幻影としての書物〉。

これは、われわれがある書物について話したり書いたりするときに立ち現れる、あの変わりやすく捉えがたい対象のことである。〈幻影としての書物〉は、読者が自らの〈内なる書物〉を出発点として構築する様々な〈遮蔽幕(スクリーン)としての書物〉どうしの出会いの場に出現する。

p241

各々が各々の〈遮蔽幕(スクリーン)としての書物〉について語っているので、必然語られる本はそのどちらとも同じではない、ということですね。

この3種類の概念を用いながら、いかにわれわれの読書がテキトーなものか、が具体例とともに示されます。

読書は、何かを得ることよりむしろ失うことである。それは、この喪失が流し読みの後に来ようと、人から本の話を聞いた後であろうと、漸次的な忘却の結果であろうと同じである。

p102

話し手のうちの誰も、話題にしている本を読んでいない、あるいはざっと読んだだけというのはよくあることで、その場合はみんなが別々の本についてコメントしているも同然である。

ある具体的なタイトルを介して、一連の書物が会話に絡んでくるのであって、個々の書物は、教養というもののひとつの観念全体へとわれわれを導く、この全体の一時的象徴にすぎない。

p120-122

そして最終的には、本を読むな、そして読んでいない本について語れ、という結論に至ります。

読んでいない本について語ることが正真正銘の創造活動であり、そこでは他の諸芸術の場合と同じレベルの対応が要求されるということは明らかである。

p270

以上簡単に本書をまとめてみました。

特に面白かったのは、「本を読んだとはどういう状態か」についての考察。一度目を通しただけでは確実にその大部分を忘れているが、そんな本を果たして「読んだ」と言えるのか。
本を読む上で大切なのは、その本がどのような場所に位置づけられるかを把握すること、とバイヤールは言います。

ある時点で、ある文化の方向性を決定づけている一連の重要書の全体(中略) を〈共有図書館〉と呼びたいと思うが、ほんとうに大事なのはこれである。この〈共有図書館〉を把握しているということが、書物について語る時の決め手となるのである。(中略) 大部分の書物を読んでいないということはなんら障害にはならないのである。

p36

ここで僕は少し前に「読んだ」、蓮實重彦「監督 小津安二郎」を思い出しました。

バイヤールにならって読んだことのない本について言及してみると、蓮實重彦は「表層批評宣言」で、不自由な「言葉」や「知」から逃れるため「表層」へ回帰することが批評だと主張しました。

これ完全に、「読んだことのない本について語る」とは真逆ですよね。表層にこだわって読書するなら、一言一句逃さず読むって感じでしょうか。

バイヤールはこう言います。本はその内容が大切なのではなく、その本が置かれた文化的背景に注目しろ、と。

蓮見はこう言います。あくまで見たことについて思考しろと。全てはスクリーン上に晒されている、と。

映画を観て、本を読み、音楽を聴くことで余暇の大半を過ごしている僕はこの振り幅に感動しました。既存の作品に触れるだけでも、こんなに真逆の考え方があるのかと。

本書の終盤ではオスカー・ワイルドの「芸術的創造と批評の間に区別はない」という言葉を引用しながら、語るべきは個々の本についてではなく、自分の〈内なる書物〉についてである、と結論づけられます。

このなんと心強いことか。本は飛ばし読みしてもいいんです。映画は寝落ちしながら観てもいいんです。音楽は家事をしながら聴いてもいいんです。

今年度から社会人になり、何だか満足に好きなことができていないな…と悩む僕の肩の荷を下ろしてくれる、ありがたい一冊でした。ありがとう、バイヤール。

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