
作家は時間を疑う
【その14】
「やつに時間をあたえよう。あしたといったって、きょうの別名にすぎないよ」
訳者 龍口直太郎
新潮社 昭和30年 68頁 『赤い葉』
【その15】
「おれはいつだって何時か知っているよ」
『エンダーのゲーム 下』
訳者 田中一江 早川書房 2013年 84頁
【その16】
「地球人であるわたしには、時計の言うことをー
またカレンダーの言うことを信じるほかないのだった」
『スローターハウス5』
訳者 伊藤典夫 早川書房 32頁
【その17】
過去と言い未来と言い、僕等には思い出と希望との異名に過ぎず、この生活感情のいわば対照的な二方向を支えるものは、僕等の時間を発明した僕等自身の生に他ならず、それを瞬間と読んでいいのかどうかさえ、僕等は知らぬ。
従ってそれは「永遠の現在」とさえ思われて、この奇妙な場所に、僕等は未来への希望に準じて過去をよみがえらす。
『ドストエフスキイの生活』
新潮社 1964年 16頁
こうして並べてみると、作家というのは時間そのものを疑うようだ。
時間そのものを疑うことを許されている、と言ってもいい。
だって、学校やオフィスで上のような発言をしたら、白い目で見られること必至だから。
だけど、ひとたび書物の中にもぐり込めば、こういった文章は抜群に輝くし、面白い。