読書のハードル。(書きたいことが生まれればver.)
前回noteでは、大村はまさんの著書
『日本の教師に伝えたいこと』(ちくま学芸文庫)を
読みながら、なるほどぉー、と思いました
「漢字を覚える」(208頁〜)について申したのですが。
もうひとつ、そのブログの中でも挙げました
「読書感想文」(228頁〜)のことをね、
今回のブログでは申したいと存じます。
前回で引用いたしました箇所では、
【このあいだ新聞に、子どもたちを国語嫌いにしているのは、
漢字書取りと読書感想文である、
と書いている評論家がありました。】
と大村先生はおっしゃっていたですが、さらに、、
読書感想文とは、その位置づけが
どういうものか確かめられないまま、
夏休みにおける年中行事のごとく行われている、
とも言われていて、たしかに
そうなのかもしれない、と思いました。
さらには、
読書、つまり「読む」ことと、
感想、つまり「書く」ことは、
別個の領域であること、そして
読書をすれば、必ず、感想文を書かなければ
その本を読んだ価値はない、
ということはありません、とおっしゃるのは
ぼく自身としても勇気が出てくるようでした。
以前のブログでも申したと存じますが、ぼくも
子どものころ読書感想文がいやだったな。
なにがいやだったかと思うとすると、
ぼくの場合は当時、
日頃、読書もしていなかったし、
でも、読書感想文の宿題が出れば
読書しないといけなくなって、それで本を読んでも
おもしろいと思えるわけもなく、そこから
無理矢理に感想文を書こうとしても、
文章を楽しく書けるはずもない。
読書が好きで、その読書によって
おもしろいと思える人ならばまだしも、
そういう流れからすると、ぼくなんかは
読書感想文もいやになってしまうし、
読書自体もいやになってしまったやもしらない。
大村先生の教室では、大村先生の選んだ本を置く
「大村文庫」を教室の隅に作ったそうですが、
子どもたち誰も本を借りに来ない。
明くる日になっても借り手はなく、三日目になってついに
我慢が仕切れなくなった大村先生は、本の好きなある子に
「この本読まない?」と誘ってみると、その子は小さい声で
「先生、感想文なしで?」と訊ねたそうです。
どうしてそんなことを訊くんだろうと思うと、
つまり、事の発端は、教室のいたずらっ子が
「あの本を借りるとね、先生は、あの本が
どのように読まれるか、知りたいんだって。
だから、感想文は五枚以上出してもらうんだって」
(同著232-233頁)と言ったのだそう、とのことでして。
感想文を書かなければいけない読書とは、
たとえ本が好きな人でも、それだけ
読書のハードルが上がってしまう。
ぼくは、大人の年齢に成ってから
読書をするようになったですが、
読書って、及び、感想って、
もっと気楽なものであり、かつ
もっと自由なものであるとも思う。
つまりはさ、読書の感想及びどんな感想だっても
書きたいことが生まれれば書こうとしてもよいし、
そういうのが無ければ書かなくてもよい。
とは言えども、現実問題として
読書感想文が宿題として出されている子どもたちに対して、
そんなことを伝えても意味は無いんだろう。
ぼくが伝えられることを考えるとすると、
やっぱり、たとえば、
本を読んで、おもしろい! と思えること、
つまり、逆を言えば、まずは
おもしろいと思える本と出合えることが、
肝要なのだと思うんだけどねー。
令和6年10月7日