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問い続ける意味

私の本当に望んでいることはなんだろう。
私は今、どうしたいのだろう。
これらは私が毎日ほぼ途切れることなく、自分に問い続けていることである。
惰性に任せて家事をこなすこともできる。仕事をすることもできる。しかしそこでちょっと意識的にブレーキを踏んでみるのだ。
「ちょっと待て。これは本当に私がやりたいと思っていることなのか?」
と。

例えば出かける時、靴を左右どちらの足から履くのか。自分はどっちを望んでいて、どっちがより心地良いと感じるのか、と言った具合だ。日常生活の小さなワンシーンを細かく細かくみじん切りにして、いちいちについて『それが現在の自分が心からやりたいと思っていることなのか?』と問いかけてみる。
面倒で手間がかかる作業である。けれど、こうやって敢えて自分に問いかけ続けると、真の自分の望みがやがてくっきりと見えてくる。

これは実は私にとって、かなり難しい作業である。
世の中には
「そんなこと、わざわざしなくても自分の望むようにしか行動していないよ」
という人も大勢いることだろう。
だけど、私は苦手である。これまで何度となく書いてきたように、育った環境による考え方の癖が、私に染みついているからだ。
出勤するまでに家事を終わらさなきゃ。早くゴミを捨てに行かなきゃ。洗濯物を干さなきゃ。こういった『やらないと家族が困る』系の仕事は、『つべこべ言わずにさっさと済まそう、好き嫌いなんて言ってられない』と思い込み、ロボットのように行動しがちである。
しかし、敢えてちょっと思考を止めてみる。
待て待て、本当に私はそうしたいのか?
すると自分の心の中のいろんなものが見えてくる。

どうも私は『こなし仕事』を『済ませ』ないと、落ち着いて楽しめない人間のようだ。だからその仕事が果たして本当に『自分がこなさねばならない事なのか』ということに対しては無頓着なまま、躍起になって動き始める。さっさと済ませたくて、考える前に実行に着手してしまうのだ。
我が家にはもう一人、夫という人間が住んでいる。普通に考えれば夫だって家事をしていい。でも私がひたすら自分の仕事として家事を『ちゃっちゃと済ませる』ことに邁進しているから、夫はそれに慣れきってしまっている感じがする。
決して『家事は妻の仕事』なんて自発的に思っている訳ではないと思う。いや、もしかしたらそうなのかも知れないが、夫がそういう考えに至った一因は、私がこの調子で『自分がこなす仕事』として家事一切をやってしまっていることにあると思う。

私は家事をやりたいのか。好きなのか。
家事そのものが好き、というのではないのは明らかである。
料理は嫌い。ゴミ捨ても好きではない。洗濯も皿洗いも面倒くさい。誰かがやってくれたら楽でいい。
でも美味しいものを食べるのは好き。夫と二人食卓を囲みながら、その日にあった他愛もない話をするのは、私にとって大切にしたい時間である。
ゴミがなくなればスッキリする。洗濯物がパリッと乾けば気持ち良い。汚れた皿が綺麗になったのを見ると嬉しい。
じゃあ例えば出前を取る。ゴミ捨てを夫に頼む。洗濯を全てクリーニングに出す。出来ないことはない。
しかしここで何かが引っかかる。
出前ばかり取ってられない。お金もかかるし、栄養も偏るかも。私が病気の時は夫にもゴミ捨てを頼めるが、身体がちゃんと動くなら私がゴミ捨ていかないで誰が行く?パンツまでクリーニングに出してられない。
家事代行サービスを頼むというのも手である。でもやっぱりお金が要る。
とどのつまり、『やりたくてやっているのではなく、私はお金を使うのが嫌で自分が家事を請け負っているのではないか?』という疑問が頭をもたげる。
当たっている。でも生活していくのに必要で、それを誰にやってもらう当ても当面ないから自分でやっているのだ。
今のところ、しょうがないということになる。

しかし人間として生活していくのに最低限必要なことでも、自分に無理をさせて行っていれば、きっとどこかでその歪みは自分の心身に出てくる。
毎日は無理でも、例えば一日家事をさぼって、『好きなことだけする日』を設けてみる所から始めても良いかもしれない。
自分を甘やかすのはついつい罪悪感を伴いがちであるが、たまにはやってみよう。
好きなことをするための交換条件のように、家事を頑張らなくて良い。義務のように仕事をしなくて良い。なにもかも自分が背負いこまなくて良い。
家事の中にも、仕事にも自発的に『楽しい』と思える瞬間は沢山ある。その時間は心が満たされる。家事も仕事も、しんどいことばかりでもない。
上手に『頑張り過ぎ』を手放して、軽く生きていけたら良い、と思っている。
その為に、私はこれからも毎日、毎瞬間、自分に問い続ける。
「私、本当にこれを望んでいる?」
と。






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