続・胃が痛い。いや、胃か知らないけど。
お腹痛いぜ。痛い。
一昨日、昨日よりマシになったんだけど、痛い。
しくしく、きりきりと痛い。でもマシになってきている。
よかった。
今日は病院に行って、診てもらったので胃薬と胃腸薬はもらった。これで胃酸は少しでも抑えられるので、なんとかなってくれると嬉しい。
ほんとは内視鏡で診てもらいたかったのだけど、初診で診てもらうというのはなかなか難しいものだ。
痛みにずっと付き合っていく中で、僕は痛みを伝えることは下手だなということに気付く。
バーバル、ノンバーバル、どちらの手段でも痛みを訴えるのはなんか下手らしい。
というか、痛みをあんまり深刻に受け止める、ということが自分自身でできていないのだな、と自己分析している。
昨日の痛みが、どれくらいか、というと、痛みで一旦全部の思考が止まるくらいだし、一昨日は寝つけないくらいだし、昨日は痛みで起きるくらいだし、時に痛みで鳥肌や冷や汗が出てくるくらいである。
僕は痛みに鈍いのか、痛みに危機感を覚えないのか、痛みを表現するのが下手なのか、どこの要素が欠けているのかはわからないけれど、
嫁にこの痛みを伝えるのに1.5日かかった。伝え具合に真剣さが足りなかっただけだと思うけど。
感覚を他者と共有することは難しいことだ。
僕は、酒の味わいを他者へ伝える、ということを9年間やってきた
(※未成年で飲めなかった1年を除く勤務した10年間)
これは味わいの感覚を共有する、ということに他ならない。
味わいを共有するためには、まず感覚を要素ごとに分けた上で工程を踏むことが必要だと思っている。
具体的にはまず要素に分ける
味わい、と一口に言っているが、人間は食味を嗅覚と味覚で同時に感じている。
分けて感じることは難しい。しかし、日本酒という特性上、これらを分けて感じる必要がある。
これを分けずに感じると、ドライな味覚の日本酒であっても吟醸香の香りにミスリードされて甘いお酒だと感じてしまうことがある。
味に関しても厳密にいえば糖分由来の甘みのものか、酸由来のものか、アミノ酸由来のものか、など、分けて感じれるほうが良い。
続いて、工程を踏む。
テイスティングする→言語化する→記憶する→言語を頼りに味と香りを思い出す→伝わるであろう言語を想定して表現する
おおむね、僕が伝えるためにはこのようなルートをたどる。
僕は感覚を伝える、ということのプロとして生きてきたので、痛みであっても、自分が伝えられていない、という事実にすこししょんぼりしてしまったりする。
自分で考察するに、痛みというものを重大にとらえていないか、他者よりも痛みに鈍感なのか、どちらかではないかと思う。
言語化の問題ではなくて、感覚器の問題、である。
そういえば僕は小学生のころから頭痛もちで、頻繁に頭が割れるかと思って学校を休んでいた。
それを月に1回は繰り返していた。今は半年に1回くらいに減ってくれているが、要はここまでの人生の蓄積で痛みに慣れてしまっているのかもしれない。
あるいは、僕の頭痛は必ず治るので、痛みは必ず治ると無意識のうちに信じていて、痛みを軽視してしまうのかもしれない。
そんなことを考察する前に、嫁からは「はやく内視鏡してもらって…」という視線が矢のように飛んでくるので、痛みが引かず、回復がなかったら病院に電話しようかな…と思う。
ふぅ、痛みに多少なりと慣れている可能性があるとしても、間欠的に繰り返す痛みには、神経をすり減らすものだなぁ。