天然麹菌採取の危険性と、日本の微生物の研究者たちが守ったものについて
今から2年ほど前である2019年の秋に、僕はこの記事を書いた。
非常に悔しい、哀しいことに、野生麹(天然麹)は、僕の思っていた以上のスピードで世の中のごく一部に浸透してしまうことになった。
歯がゆいし、とても力不足を感じる。
度々機会を頂くたびに、セミナーなどの機会には必ず野生麹(天然麹)のことに触れ、その危険性となぜ危険かを言葉にしてきたつもりだったが、
一般図書を始め、ごく普通のことかのように、《天然麹菌》《天然麹》
などと書かれるようになってしまった。
本当に哀しい。
この2年間の間に、僕は自分の麹屋をはじめることになった訳だが、
だからこそ、この野生麹(天然麹)のことについて啓蒙していかなければ、とより強く思うようになった。
いちいち野生麹(天然麹)などとめんどくさい言い回しをしているのは、「天然麹は良いものだ」と勘違いしてしまう人の目にも触れてほしい、
そのために検索キーワードとして引っかかるようにという最大限の悪あがきである。
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元々、僕はこれを記事として書くつもりはなかった。
記事にしてしまうことで興味本位で実施する人が出てくるし、知らないことが一番だと思っていたから。
問題をいち早く鎮火させる方法は"そもそも問題を取り上げないこと"だと思っているので、それを実践するつもりだった。
それでも書くに至ったのは、自然に問題が収まるのを待つには広まりすぎたし、放置する方が危険度が高いと思う状況に陥ってしまったからだ。
この危険性を提言することが、未来の日本の発酵文化を守ることにつながると信じてやまない。
僕が稲霊のことを知ったのはある夏の日だった。
ある発酵系のコミュニティでその話題が取り上げられているのを目にして、はじめてその存在を知った。
稲霊(いなだま)とは無農薬で栽培された米に偶然生えるカビのようなものだ。
これに野生の麹(――つまり、彼らの言う "天然麹")が付着していると考え、
そこから麹をつくろうと試みる人たちが増えてきている。
自然環境から麹菌を採取することにロマンを感じることは僕にもとてもよくわかる。
なんなら自己責任で、研究の一環としてなら、やってみようかという考えが、頭をよぎらないでもない。
実際にある酒蔵でもこの稲霊から麹菌を採取し、それを使用したところもあるそうだ。(その代わり、菌の同定解析は実施し安全性を担保している)
ただ、天然麹と呼ばれる存在の危険性は十二分に理解されて欲しいと思っている。
この危険性を取り除くために、
麹に関わる多くの研究者たちが、時に辛酸を味わいながら苦労と努力を積み上げてきた歴史がある、ということを、合わせて知ってもらえると嬉しい。
さて、野生麹(天然麹)の話をする前に、そもそも稲霊とは何なのか、という話をしたい。
結論から言ってしまうと、稲霊のカビのような塊は、麦角菌という麹菌とは全く異なる菌だ。
なので、稲霊自体をふりかけても麹になることは普通ありえない。
ただ、自然発生しているものなので、麦角菌だけでなく、他の菌とも共存していると考えられている。
その共存している可能性のある菌に、黄麹カビ、つまり醸造に利用される「アスペルギルス・オリゼー」(Aspergillus oryzae)が混入している時もあるそうだ。
それを分離して使うことで、醸造に使えるような麹がつくれる可能性もある。
しかし、それが本当にオリゼーかどうかは見た目では絶対に分からない。
勘で分かることは絶対にないし、食べてみて分かるということもほぼない。
なので、そのカビが安全に醸造に使える菌かどうか、専門機関に委託して、ゲノム(遺伝子)を解析して確かめてもらうしかない。
でもそれは一般の人がするにはお金もかかるし難しいことだ。
なぜそんなことをやらないと使用できないのか、麹なら安全じゃないか、と思うかもしれない。
でも、決してそんなことはない。
なかったのだ。
日本の微生物の研究者たちはその危険性を追求されても、明快に答えられない苦しい時代が、実は長くあった。
アスペルギルス・オリゼーをはじめとする、日本で醸造に利用されているカビの安全性が立証されたのは実はほんの最近。
2005年12月、ようやくそのカビの全ゲノムの解析を完了し、遺伝子的にカビ毒を生産する可能性が0%であると確認できた時だった。
それが証明できるまでの国際的な微生物の世界では、
「日本人はカビ毒をつくる危険性のある麹菌を利用している、とても野蛮な民族だ」と言われており、日本の研究者たちもそれを否定しきれない、そんな時代が長く続いていた。
なぜ、日本人は野蛮とまで呼ばれねばならなかったのか。
それはあるカビが引き起こした事件が尾を引いていたからだった。
1960年、イギリスで大量の七面鳥が突然死する事件があった。
その原因だと特定されたのがアフラトキシンという成分であり、それを生み出した原因となったものこそ、アスペルギルス・フラバス(Aspergillus flavus)というカビだった。
それはターキーX病(七面鳥X病)と言われ、とても恐れられた。
アフラトキシンはその後もインドで死者を出すなど、人間にも多くの被害を出しており、実際、天然物質としては最強クラスの発がん性をもっている。
そのアスペルギルス・フラバスは、日本の麹カビであるアスペルギルス・オリゼーとあまりにもそっくりだった。
欧米などの諸国はその記憶があったため、酷似していたアスペルギルス・オリゼーをつかった発酵食品を日常的に使用している日本を中心としたアジアの諸国は国際的にも非難され、その危険性を訴え続けられた。
それに対して、様々な根拠を提示し、毒素がないことを訴えながらも、
「毒素を生み出す危険性がゼロではない」ということを証明しきれなかった。
その長く苦しい時代を経て、日本の微生物の研究者たちは、麹菌のゲノムを解析することで、ようやく、日本の、アジアの発酵文化の健全性を正式に立証した。
世界でこの麹文化がようやく全面的に認められるようになったのはここ15年ほどのことなのだ。
僕はこのことを初めて知った時、麹に関わる日本の全ての微生物の研究者に心から感謝し、感激した。
そうして、日本の発酵文化は確かに守られたのだ。
更に時代は流れ、今、この時代。
自然から、野生のコウジカビを採取し「天然麹」「天然麹菌」と呼んでしまう、そんな流れが強くなってきている。
前述したが、この行為自体は非常にロマンある行為だと、僕も思う。
ただ、野生のコウジカビには、前述したフラバスや、同じようにカビ毒を生産するアスペルギルス・ニガーなど、そういった菌も混入してしまう。
カビ毒・アフラトキシンを生成するかどうかは本当に見た目では分からない。
麹の糖化力などから分からなくもないが、100%の安全性は立証できない。
そう、研究者たちが、長らく証明できなかったように。
野生麹(天然麹)の採取は、野生酵母(天然酵母)の採取とは全く質が異なる。
天然酵母や天然イーストと呼ばれる、自然環境から採取・培養した酵母菌は毒素生産の危険性はない。(アルコールも毒素といえるが…)
しかし、野生麹には常にその危険性が伴う。
僕は麹のプロとして、その世界で生きてきて、これからも生きていくものとして、どうしてもこれを文字にして残しておきたかった。
そして今一度、多くの人の目に触れることを心から願っている。
麹が自由に闊達に楽しまれるのは、とても嬉しいことだと純粋に思っている。
ただ、その危険性についてだけは、麹を扱う人にはぜひ知っておいていただきたい。
過去の人たちが守り、繋いできてくれた発酵の歴史を、
麹の安全性の歴史を、
どうかこれからも繋いでいってほしいと切に願っている。
それをつないでいくことが、これからの日本の発酵文化を守ることになると、僕は信じているから。
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