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物部守屋と蘇我馬子: 対立が生んだ日本史の転機

物部守屋と蘇我馬子の対立、丁未の乱と物部氏の衰退、物部守屋に関する謎 二選

これら3つのテーマについてご紹介します。

6世紀の日本。
新しい宗教、仏教が大陸から伝わり、古くからの神道と衝突し始めました。
この時代のリーダーたちは、新しい時代にどう対応するか、重要な決断を迫られていました。
物部守屋と蘇我馬子、二人の大物が運命を決することになるのです。

ニギハヤヒと物部氏

ニギハヤヒは物部氏の祖先とされる人物です。
先代旧事本紀や神社伝承をたどると、ニギハヤヒこそ九州から東遷したさきがけでした。
神武天皇より先にヤマト入りを果たしていたのがニギハヤヒでした。
ニギハヤヒを始祖とする物部系の氏族は、交野物部、鳥見物部、筑紫聞物部のように、勢力を各地に広げていました。
さらに、継体天皇の時代には筑紫磐井の乱で、天皇が物部麁鹿火に筑紫より西は物部が制圧し統治するように命じています。
このように、物部氏がヤマト政権で重要な地位を占めていたことが推測されます。
物部守屋、豪族としての名声を築き、日本の伝統的な神道を守り抜くことに全力を注いでいました。
彼の信念は明快でした。
『日本の神々こそ、我々を守り導く存在だ』と信じていました。
対して蘇我馬子、彼は仏教が新たな時代を開くカギだと考え、未来のためには変革が必要だと信じていました。
守屋にとって、仏教は外来の脅威であり、国の魂を揺るがすもの。
一方、馬子にとって仏教は、国を豊かにし、未来の安定をもたらす希望でした。

物部守屋の出自

物部守屋は、古代日本において強力な影響力を持っていた物部氏の出身です。
守屋の父親の尾輿が弓削連の家から娘をもらい守屋が誕生します。
物部氏は、古代の豪族として名を馳せ、国家の守護者としての役割を果たしてきました。
特に、彼らは日本の神々を守るための『神剣』や『祭具』を預かり、神道の信仰と深く結びついていました。
物部氏は、戦士としての力だけでなく、宗教的な権威も担っており、その影響力は政治や国家運営にも大きく及んでいました。
守屋自身も、祖先から受け継いだこの誇りを守るために、仏教に対抗する強い信念を持っていたのです。
物部守屋は敏達天皇、欽明天皇のときに大連となって仕えていました
側近としてはナンバーワンです。

仏教公伝

538年とも552年ともいわれる仏教が日本に伝わります、いわゆる仏教公伝です。
百済の聖明王が釈迦仏の金銅像、幡(はた)と蓋(きぬがさ)を献上してきました。
欽明天皇はどちらかというと優柔不断、裁断を臣下に任せるタイプ。
欽明天皇は国家として仏教を受け入れるかどうか群臣に問うた時、物部尾輿と中臣鎌子らは反対しました。
一方の蘇我稲目は仏教受け入れに賛成したため、天皇は稲目に仏像などを与えました。
仏教を巡る騒動もこの優柔不断な対応が騒ぎを大きくしてしまいます。
稲目は私邸を寺として仏像を拝みますが、その後に疫病が流行ると、尾輿らは、外国から来た神を拝んだので、国津神の怒りを買ったのだとして寺を焼き仏像を難波の堀江に捨てました。

対立激化

欽明天皇が亡くなり敏達天皇が即位します。
天皇は蘇我馬子らが仏殿を造ることは容認しました。
馬子が寺を建て仏を祭るとちょうど疫病が発生したため、585年に物部守屋が天皇に働きかけ、仏教禁止令を出させます。
守屋は自ら蘇我稲目の石川精舎に出かけ、仏像と仏殿を燃やさせました。
さらに、仕打ちは続きます。
兵を遣わして善信尼らの尼の法衣を奪い、海石榴市の馬屋館で尻や肩をムチで打ち叩きました。
善信尼は渡来系氏族の司馬達等の娘で、12歳前後の幼い娘でした。
疫病はとどまるところを知らず、世間では仏法弾圧のせいだと噂が広まりました。
しかし、その年に敏達天皇は崩御してしまい、仏教の争いは用明天皇の時代に持ち越されました。
用明天皇はお母さんが蘇我氏なので仏教推進です。
そのため、天皇と馬子が仏教を推進しようとしたとき、守屋や中臣勝海は兵を集めそれに備えます。
仏教を巡る対立とは別に皇位継承問題も起こっていました。
不思議な事件が発生します。
自ら天皇後継者と考えていた穴穂部皇子が、敏達天皇の皇后で馬子のお姉さんの娘の炊屋姫(後の推古天皇)を襲おうとする事件が起きます。
これに対し、兵衛を集めて宮門を閉じて侵入を拒んだのは、三輪君逆です。
穴穂部皇子は守屋とともに兵を率いて用明天皇の宮・池辺宮を包囲します。
三輪君逆は三輪山に逃れた後、夜に山を出て炊屋姫の後宮に隠れましたが、彼の一族である白堤と横山がその居場所を密告しました。
穴穂部皇子は守屋に命じて、逆とその子供たちを討伐するように指示し、守屋は兵を率いて後宮に向かいます。
穴穂部皇子も合流しようとしましたが、馬子に「王は刑の執行に関わるべきではない」と諫められました。
最終的に守屋が逆を斬ったことを報告しました。

穴穂部皇子の最後

用明天皇が崩御した後、後継者が決まらず皇位が一時的に空位となりました。
守屋は穴穂部皇子を天皇に立てようとし、皇子に密使を送り淡路に来るよう誘います。
しかし、馬子は炊屋姫を支持し、穴穂部皇子と宅部皇子を速やかに討伐するよう命じました。
587年6月の夜、佐伯連丹經手らが穴穂部皇子の宮を包囲し、皇子は肩を斬られた後、隣家に逃げ込みますが、衛士たちに見つかり討ち取られました。

丁未の乱

587年7月、蘇我馬子は皇子、群臣と謀り、物部守屋追討軍の派遣を決定します。
馬子は厩戸皇子、泊瀬部皇子、竹田皇子などの皇族や諸豪族の軍兵を率いて河内国渋川郡の守屋の館へ進軍します。
大和国から河内国へ入った蘇我軍は、餌香川の河原で物部軍と激しく戦います。
守屋は一族を集めて稲城を築き守りを固めます。
守屋自身も木に登って矢を放ち、奮闘したため、追討軍は恐れて退却しました。
これを見た厩戸皇子は、四天王の像をつくり、戦勝を祈願し、我らが勝利したら仏塔を建立して仏法を広めることを誓いました。
戦は急展開し、迹見赤檮(とみのいちい)が大木に登っている守屋を射落として亡き者とし、総大将を失った物部軍は総崩れとなります。
このチャンスに蘇我軍は攻めかかり、守屋の一族を壊滅させました。
厩戸皇子の活躍話は、後世に付け足されたものといわれ、定説化しています
なぜなら、戦の後に四天王寺が建立されているからです。
物部氏の所領跡に四天王寺が建てられました。

物部守屋の信念と決断

物部守屋は、ただ戦士であるだけでなく、家族や仲間を守るために戦っていました。
彼にとって、この戦いは日本の未来を守るためのものだけでなく、彼が築いてきたすべてを守るためのものでした。
守屋は、誰にも揺るがされない強い信念を持って戦い続けました。
彼が戦いに挑むとき、家族のことを思い、彼らの未来を守ることが彼の心にあったことでしょう。
『この国を守り、子供たちに伝統を残す』それが彼の使命でした。

その後の物部氏

物部守屋は勇敢に戦いましたが、蘇我馬子の軍勢には勝てませんでした
守屋の敗北、それは物部氏の衰退を意味しました。
しかし、守屋は最後まで信念を貫き通しました。
守屋が倒れた瞬間、彼の心に去来したのは何だったのか?
敗北の痛みか、家族を守れなかった悔しさか。
あるいは、未来の日本がどこへ向かうのかという不安だったかもしれません。

物部守屋が残したもの

物部守屋の敗北は、ただの個人の敗北ではありませんでした。
彼が守ろうとした日本の伝統は、今も続いています。
仏教と神道は、時を経て共存し、共に日本の文化を支えています。
物部守屋が何を残したのか、それは単なる戦士の勇気だけではなく、日本の精神そのものだったのです。

物部氏のその後

物部守屋の敗北は、物部氏の運命を大きく変えました。
守屋の死をきっかけに、物部氏は次第に力を失い、蘇我氏が日本の政治と宗教を支配する時代が訪れました。
特に仏教が国家の中枢に受け入れられたことで、物部氏の神道を中心とした権威は失墜していきました。
しかし、物部氏の血筋や伝統は完全に消えることはありませんでした。
石上神宮のある布留にいた物部氏はその後も活躍し、天武天皇に仕えた物部麻呂のときに石上を名乗るようになりました。
物部氏の末裔は地方の領主や神職として、細々と生き延び、歴史の中にその名を残しました。
彼らの信念や精神は、今日の日本の神道においてもその痕跡を確認することができます。
締めくくりに物部守屋に関する二つの謎をご紹介します。

四天王寺の守屋祠

四天王寺は、大阪市天王寺区四天王寺にある和宗の総本山の寺院です。
山号は荒陵山(あらはかさん)で、本尊は救世観音です。
聖徳太子建立七大寺の一つとされています。
中心伽藍に塀で囲まれたところに聖徳太子を祀る精霊院と物部守屋を祀る守屋祠(もりやのやしろ)があります。
それは、ひっそりと物部守屋大連、弓削小連、中臣勝海連を祀っています。
なんと、聖徳太子の仇敵 のはずの守屋の祠が鎮座しているのです。
歴史の謎がまた一つ増えそうです。

生石神社・石の宝殿

生石神社は、兵庫県高砂市、宝殿山山腹にある県社です。
石の宝殿と呼ばれる巨大な石造物を神体としており「日本三奇」の一つとされています。
水面に浮かんでいるように見えることから「浮石」とも呼ばれます。
播磨国風土記の印南郡の大国里の条に「土地の伝承として、聖徳太子の御世、弓削大連の造れる石なり」と記されています。
守屋がこの石を自分の墓に、この巨大な墓室を造ろうとしていたけど、その途中で亡くなり断念したものだと推測する考えがあり、面白い説だと思いました。


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