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(総括感想)「わんだふるぷりきゅあ」わんぷりの本質は「喪失」を前提とした関係と「非言語コミュニケーション」による相互理解である

 こんにちは。今回は、先日完結した「わんだふるぷりきゅあ」についての総括を語っていきたいと思う。最初に結論からいってしまうと、ここ5年程のプリキュアシリーズの中で一番良かったのではないかと思っている。それは結果的に、前作の「ひろがるスカイプリキュア」で描こうとして失敗した事を、「わんぷり」であっさり成功させているからだ。それでは、ここから「わんぷり」の何がそんなに凄いのか、何を達成したのか、詳しく説明していこう。

 まず、物語の前半についてから、「わんぷり」がどういうシリーズだったか紐解いていこう。「わんぷり」の前半は、他のプリキュアシリーズとは異なり、敵組織が登場せず、ただガルガル(暴走)した動物達を助けることがメインになる。

 つまり、前半はプリキュア対敵組織というような思想的な対立は起こらない。むしろ思想的な対立は、動物達を助けたい、いろは、こむぎ達わんぷりチーム対まゆを守りたいユキという、プリキュア同士の中で起きているのだ。

 いろは達は基本的に動物達と仲良くなりたい気持ちがあり、ガルガルしている動物達を助ける、解放してあげるという目的で動いている。そのため肉弾戦によりガルガル達を傷つけるような戦い方はしない。それに対してユキは、重要なのは自分の飼い主のまゆだけである。まゆさえ無事なら他の事はどうでもよく、まゆを危険から守るためならガルガルに対し、武力による制圧も躊躇せず行う。みんなのために非暴力で戦ういろは達、まゆのために暴力で戦うユキ、この2つの思想的対立がわんぷり前半の軸である。

 そして、いろは達とユキの対立は別の部分でも起こっている。動物達を傷つけず、肉弾戦以外の非暴力アクションのいろは達と、従来のプリキュアシリーズと同じように肉弾戦でのバトルアクションのユキという、アクションレベルでも、シリーズコンセプトの対立が起きているのだ。この構図は、従来のプリキュアシリーズ(肉弾戦)の面白さに対して、非肉弾戦で挑む「わんぷり」というような比喩としても読む事が出来る。

 そして、まずバトルの方からいうと、「わんぷり」の非暴力アクションは今までのプリキュアシリーズのバトルアクションに対抗出来るレベルなっていた。というか、むしろ肉弾バトル禁止という制限のおかげで、下手にバトルを全面展開しているシリーズよりもよほど面白いアクションシーンを描くことに成功していたといっていいだろう。

 「わんぷり」のアクションは基本的に、攻撃ではなく、追いかけっこや、捕獲が中心のアクションである。また、毎回出てくるガルガルしてしまう動物の特徴や動きの特性等を取り入れ、それを攻略の糸口にしている。

 さらに、プリキュア側にも助けた動物の特性を借りる事が出来る、「お助けアニマル」というアイテムが出てくる。ガルガル側の実際の動物の特性を反映した動きと、プリキュア側の動物の能力、特性を利用した動きの掛け合わせにより、映像的に豊富なアイデアが生まれ、より多様なアクションを展開することが出来ていた。逆に、肉弾バトルが描けるプリキュアシリーズでも、バトル内容が単調になってしまったり、マンネリ気味になってしまう事は多い。そんな中「わんぷり」は肉弾戦禁止という制限により、いかにバトル以外の要素で絵を保たせるか様々な工夫がなされた。その結果、肉弾戦禁止の制限があるにも関わらず、プリキュアシリーズの中でも屈指のアクションを成立させたのだ。

 次に物語の方であるが、傷つく事を恐れ、自分の内面に閉じこもるまゆと、まゆを守るために、まゆを殻の中閉じ込めるユキが、いろはとこむぎという他者に触れる事で、自分の世界を拡張するという展開になる。そして、いろは達の考え方を理解したユキも、ガルガルに対して、肉弾バトルではなく、いろは達と同じように、非暴力的な戦い方を選択し、いろは達とユキとまゆも同じチームとして一緒に戦う事になる。ここでユキといろは達との対立は解消され、わんぷりという作品のコンセプト(世界観)にユキが適応するのだ。このように、自分とまゆが世界の全てだったユキと、自分の世界に閉じこもっていたまゆが、自分達以外の人や動物という他者を認め、自分の世界を広げるまでが「わんぷり」前半の物語である。

 後半の「わんぷり」では、敵勢力のボスであるガオウ(スバル)や、幹部枠であるトラメ、ザクロも姿を表す。ガオウ(スバル)達は、かつて人間に絶滅させられたオオカミ達の無念を晴らすために人間の復讐を果たそうと考えている。というような設定である。

 このように、後半はオオカミを象徴とする、人間に恨みを持つ、ある種の「被害者」とどう向き合っていくかを模索していく事になる。そして、45話で敵幹部枠であるトラメとの決着が描かれるが、ここで「わんぷり」は他のシリーズにはないある達成をしているのだ。

 45話で、いろは達はトラメと戦うのではなく、トラメと追いかけっこをして一緒に遊ぶ。その結果として、トラメはかつて自分がオオカミとして仲間達と共に山の中を走っていた事を思いだし、浄化(供養)される。この結末は、「わんぷり」の重要な要素である「非言語コミュニケーション」とも繋がっている。
 
 当たり前だが人と動物は言葉でのコミュニケーションは取れない。だからこそ、人と動物は、いろはとこむぎのように、一緒に走ったり、遊んだり、撫でたり、抱きしめたりといったような身体的な、言葉以外のコミュニケーションが行われる。それがトラメとの決着に生かされているのだ
 
 トラメといろは達は、戦うのではなく、一緒に遊ぶ事(非言語コミュニケーション)で、同じ時間や同じ楽しさを共有する。そして、いろはの口癖である「あなたの声を聞かせて」というセリフが象徴するように、いろははトラメを理解するために同じ目線に立とうとする。

 このように、力で解決するのではなく、相手と同じ目線に立ち、一緒に遊んだり走る事で、同じ時間を、同じ楽しさを共有する。同じ目線で同じ何かを共有することで、トラメ(オオカミ)といろは(人間)のように種族が違っても、被害者と加害者の立場であっても、敵同士でも、それらの壁を超えて対等なコミュニケーションによる相互理解が成立するのだ。こむぎ(犬)といろは(人間)もこむぎが喋れるようになる以前から、種族は違うが、言葉以外のコミュニケーションによる絆が成立していたのと同じように。

 これこそが前作の「ひろプリ」が出来なかったことなのだ。ひろプリでは、敵であるスキアヘッドが、やっていることは悪い事であるが、スキアヘッドもプリキュア達と同じように愛する誰かのために戦っているのかもしれないとソラが悩むくだりがある。ここで「ひろプリ」 では敵を倒すのではない、武力による解決以外の可能性が期待された。しかし、最終的に描かれたのは、絶対悪的存在を武力(力)で倒して解決するというものだった。これに対して今回の「わんぷり」は武力(力)ではなく、動物と人間の非言語コミュニケーションによる敵との対話を描くことに成功しているのだ。

 そして、「わんぷり」には、もう一つ重要な要素がある。それは人間と動物の「喪失」を前提とした関係性である。人間と動物の関係は、人間同士のそれよりも確実に喪失が前提になる。それは、シンプルに生物として、人間らの方が犬や猫よりも寿命が長いからだ。よって、「わんぷり」が人間とペットの関係を描くうえで、死別による喪失の問題は避けては通ることの出来ない問題なのだ。

 この喪失の問題に対しては、「わんぷり」の44話で答えが示される。44話では、いろはの知り合いの女性と、その飼い犬である老犬フクちゃんとの死別が描かれ、いろは達もそれに立ち会う。そしてこの亡くなったフクちゃんの姿は、そう遠くない未来のこむぎの姿でもある。そういう意味で44話では、間接的にこむぎといろはのお別れが描かれたともいえる。

 フクちゃんの死をみてから、いろはは、いずれくるこむぎとの死別を意識して元気をなくしてしまう。そんないろはが、トラメとの和解とお別れ、そして辛い時寄り添ってくれるこむぎ達友達の存在を再認識したうえで「友達って、苦しいや悲しいもあるけど、嬉しいや楽しいはその何倍もあるから」というセリフをいう。

 なぜ死別という辛い喪失があっても人間と動物は絆を持とうとするのか? もっと言えば人間同士でもそうだ。まゆのように辛いことや傷つくことがあるのに、なぜ人は他者と関係を結ぼうとするのか? この問いに対する答えが、いろはのこのセリフで示されている。関係を結ぶことで悲しいや苦しいももちろんある。でもそれ以上の嬉しいや楽しいが、人と人、人と動物の関係の中にもあるのだということだ。いろはとこむぎの一緒にいれる時間は、人と比べたら決して長くはないのかもしれない。しかし、いろはがこむぎと過ごしたその時間は肯定されるべき価値のあるものなのだ。わんぷりで1年間いろはとこむぎ、まゆとユキ、人と動物の関係性を見てきた視聴者達には、もはや僕がその価値を説明するまでもないだろう。

 そして、面白いのが、いろはの声優さんは、「葬送のフリーレン」のフリーレンの声もやられている。そして奇しくも、「わんぷり」と「フリーレン」は人間とエルフ、人間と犬というように、寿命差のある異種族同士の絆を描いているという意味で、同じことを描いている作品なのだ。そこまで考えて意図的にこのキャスティングをしているとすれば、やはり相当コンセプチュアルな作品である。

 次にラストの結末について話していきたい。「わんぷり」では、最初ガオウ(人間に絶滅さえられたオオカミ)がラスボスであると思わせておいて、実はラスボスはオオカミと友好関係のあった人間のスバルという人物であるという反転がある。スバルは、自分の仲間であるガオウ達オオカミが人間に滅ぼされたことから、自分のせいでガオウ達が死んだと思い込み、罪の意識に囚われれいる成仏出来ない亡霊のような存在だ。

 最終的には、そんなスバルに、こむぎが、スバル
を思うガオウの気持ちを伝えてあげることで、スバルが救われるという結果になっている。もしこれが仮に、スバルではなくガオウがラスボスだった場合、ある種の、人間(文明)VS動物(自然)のような「もののけ姫」のようなスケールが大きく、難しい話しになってしまっていたと思う。さらにそういったテーマだと、やはり結論としては、お互い完全に許したり分かりあったりは出来ないけど、それでも少しずつ、お互い譲り合い尊重し、最善の形を探っていくという保留的な答え以外を描くことは難しい。なので、今回「わんぷり」では、動物を絶滅させてしまった人間の罪の話しではなく、スバルという罪の意識をもった個人の救済の話しになったのだろうと思う。そして、スバルを自己犠牲をしてでもガオウは助けようとしたように、人と動物の絆の可能性こそが「わんぷり」が描きたかったことかもしれない。

 このように「わんぷり」については、僕は絶賛の立場なのだが、最終話で一つだけ気になったことがある。それは、こむぎとユキがプリキュアの力を失い、話せなくなるのだが、また最後言葉を話せるおうになるのだ。これは正直別に話せないままでよかったんじゃないかと思う。だって、「わんぷり」は言葉以外で繋がる動物と人間の絆をしっかり描けていたと思うから。

 とまあ、僕の「わんぷり」の感想はこんな所である。犬や猫がプリキュアになるという事から、ちょっと変わり種っぽいシリーズになるのかと思いきや、ここまでコンセプチュアルに人と動物の関係をテーマに描き切り、さらにプリキュアとしてもいくつも新たな達成をしてくれるとは思わなかった。プリキュアシリーズになかでも上位の傑作である。

 わんぷりについては、ここで語り切れなかった事はYouTubeの方でたっぷり話しているので、よかったらそちらも聞いてみて下さい。そして、ゆくゆくは全てのプリキュアシリーズの感想をコンプリートする予定ですので興味をもってくれた方はフォローお願い致します。最後まで読んでくださってありがとうございました。ではまた。

「キミとアイドルプリキュア」の感想に続く



 

 

 

 


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