慶長5年(1600)7月29日は石田三成が佐和山城を出陣した日。2日後家康の重臣鳥居元忠が籠る伏見城は半月掛かりで落城。各地で東西両軍が勝ち負けを繰り返し9月15日の関ヶ原の戦いを迎える。見える結果に至るまでどんな途中経過があったか。何事もその瞬間だけで決まるものではないですね。
慶長5年(1600)7月12日は石田三成らが西軍総大将に毛利輝元を迎えようと上坂を要請した日。前田玄以、増田長盛、長束正家からの書状を受けとった輝元はすぐに軍勢を率いて広島を出発し大坂城へ向かう。そして三奉行による家康への弾劾状である内府ちかひの条々が出されて宣戦布告となる。